臭う女 【後編】

 微かな息苦しさを感じながら、目を開ける。

「お、ようやく起きたか」

 仰向けになった俺の視界に、ぬうっと音濱おとはまの顔が入ってビクンと体が跳ねた。

 音濱……?

 彼は倒れた俺の横に胡坐をかいていており、のんびりと無精髭の生えた頬を掻いた。

「フライパンを握りしめてひっくり返っていたが、料理の最中に力尽きたか?」

 そんなわけないだろ……!

 勢いよく上半身を起こし、途端に咳き込んでしまう。

「ち、違う! 殺されかけたんだ……!」

 首を絞められたせいか声が掠れており、必死にストーカー女が忍び込んでいたことを伝える。

 音濱は、ぐるりと部屋に視線を走らせて「よっこいせ」と立ち上がった。

 彼はクローゼットや、トイレや風呂場のドアを開けて中を覗きこんだ。

「もういないようだな」

 首を絞められて酸欠状態になったせいか、こめかみがズキズキと脈打つように痛む。

 音濱は勝手に冷蔵庫を開けて、缶ビールとコーラのペットボトルを手にして戻ってくる。

「まあ、飲め」

 彼はこちらにコーラを差し出し、俺は「水をくれ」と言う。

 音濱はこっくりと頷くと冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出してよこした。

 俺の横で音濱はぐびぐびとビールを飲み、思わず「おい、車で来たんじゃないのか?」と聞く。

 音濱は「ガス欠で運転できなかったから、歩いてきた」と薄く笑む。

 水を飲んだ俺は少し落ち着きを取り戻し、携帯電話をポケットから取り出して警察に連絡をする。

 その後はパトカーが数台やってきて、結構な騒ぎになった。

 外廊下の床には、フライパンで負傷した女の血痕が点々とついていたらしい。血の跡は近くの通りまで続いていたが、女の姿はなかったそうだ。

 ドラマで見るような指紋採取などの鑑識の様子はどこか現実感がなく、ぼんやりとその様子を眺める。

 背広姿の警察官に「首を絞められたということですし、病院に行きますか?」と聞かれ、俺はきっぱりと頭を横に振る。

「いまのところ痛みや痺れはないので、先に聴取をお願いします。これはただのつきまといじゃなくて、不法侵入をしているし未遂でも殺されかけました。逮捕して罪に問えますよね? 警察のかたも動いてくれますよね?」

 矢継ぎ早に言う俺に、警察官は真剣な面持ちで頷き返した。

「長い夜になりそうだなあ」

 音濱はビールの缶を傾けてのんびりと呟いた。



 その後、女が逮捕されたという報せもなく数日が過ぎようとしていた。

 あの夜から俺は音濱のもとに転がり込んでおり、彼の家から出勤する日が続いていた。

 音濱は、ちょっと前まではアパート暮らしだったのだが、今は古民家っぽい平屋の一軒家に住んでいた。

 狭いアパートの一室に男二人で住むのとは違い、一軒家ともなると部屋数もあり、互いのプライバシーも守られる。

 築五十年だという古民家はリノベーションされていた。当時の面影を残しつつも、暮らしやすい家だった。

 しかし、定職についていない音濱がどうしてこんなに広い家に住めるのだろう、と不思議だった。

 週末の夜、食卓を挟んで音濱と酒を酌み交わしながら、ずっと不思議に思っていたことを彼に尋ねた。

「なあ、音濱はどうやって生計を立てているんだ?」

「たまにバイト。あとはヒモをしている」

 ウィスキーの注がれたグラスを傾けて言う音濱にぎょっとする。

「ヒモ!? それって囲われているってことか?」

「別に愛人とかではないんだよなあ。支援者というか、妙に気に入られてしまってな。この古民家も彼女の持ち家で、住んでほしいと頼まれているんだ」

 俺が学校で授業をしている間、音濱は昼間から酒を飲んだり、縁側でウクレレをつま弾いたりしているようだった。

 とはいえ何もしていないわけではなく、料理や洗濯などの家事はこまめにやってくれていた。

 音濱だけにやらせるのは悪いので分担しようと申し出て、週末は俺が家事を引き受けている。

そういえば、たまに下駄をつっかけふらりと出かけて、夜遅くまで帰ってこないこともあった。

 支援者という女性と会っているのだろうか?

 音濱はもともと風変りな男なので、俺もさして気にしていなかったのだが……まさかヒモとは……

 ヒモ男というのは、見目が整った口八丁手八丁で女性の心を掴む、そんな人物を想像していた。

 しかし、目の前の音濱は眠たげな顔つきの掴みどころのない男だ。

 身なりに無頓着で、いつも着古したTシャツにジーパンという恰好で、大学生の頃から「下駄は健康に良いらしいぞ」とずっと下駄を履き続けている

 世界は広い。蓼食う虫も好き好きというやつかもしれない。

「おっ。豚の角煮、美味く出来てる。見神も食え食え」

 唖然としていると、音濱は朝から煮込んだという角煮を俺の取り皿に乗せた。

 ちびちびとウィスキーを飲む俺に、音濱が静かに「そういえば」と口を開いた。

「見神がストーカー女に襲われたあの晩、部屋に入ったときにさ」

 音濱は大きく切った角煮を一口で食べ、頬をリスのように膨らませて続ける。

「室内に独特のニオイがしていた」

「ああ、あの女からする匂いだ」

 話しているとあの特有の悪臭がありありと甦ってしまい、顔を顰める。

 音濱はこっくりと頷いて、気怠そうな印象を与える二重の目をこちらに向けた。

「お前さんのところで嗅いだ、ちょっと特殊な匂いを他でも嗅いだことがある」

 なんでも音濱はたまに便利屋でバイトをしているらしい。

 時に遺品整理や家の片付けの仕事が舞い込んでくるそうだ。

「亡くなった祖父が一人暮らししていた家にあるガラクタを処分してほしい、ということもあれば、ゴミ屋敷になってしまった部屋の片付けもある。他には事故物件の片付けも結構ある」

 先を促すと、音濱は小さく頷いてウィスキーを呷った。

「あの時、見神の部屋に漂っていたのは事故物件でよく嗅ぐ匂いだよ」

「……それって、まさか……」

 喘ぐように言う俺に音濱は首肯した。

「死臭ってやつだと思う。家主が孤独死して日が経ってから遺体が見つかったっていう家で似た臭いがしてた。でもちょっと違うパターンというか、死臭にも種類があってさ……」

 俺は喉の渇きを覚えて一気に酒を流し込む。カッと咽喉が熱くなった。

「これは去年、片付けに行った一軒家でな。子供が引きこもりだったんだけど、その子が部屋の中で死んでしまったらしい。自殺か病死かは分からないけれど、だけど母親は『子供は生きている』って、そのまま放置していたんだ」

 引きこもりの子供……

 あの女も学校に掛けてきた電話でそんなことを話していた。

 そう思った瞬間に総毛立ち、ごくりと咽喉が鳴った。

「どうして我が子の死体を放置できるんだ?」

 俺が顔を顰めると、音濱は小さく肩を竦める。

「本当に生きていると思い込んでいるのか。それとも現実から目を逸らしているのか……でも子供は死体なわけで……当然、腐臭がするだろ? だからそれをごまかすためかな、大量の消臭剤が家中に置かれていたんだ。もちろん、そんな家で生活していたら、匂いが体につくんじゃないのか?」

 俺はハッとなって彼を見つめ返した。

 そうだ。奇妙な臭いだと感じていたのは、腐ったような匂いに混じって人工的な香りも混じっていたからだ。

 俺がずっと嗅いでいたのは、消臭剤と腐臭が混ざった匂いだった……!?

「なあ、その家ってどこにあるんだ? その母親がストーカーかもしれない」

 身を乗り出した俺に、音濱は小さく首を横に振った。

「その母親は逮捕されているし、例のストーカー女ではないと思う」

 俺は椅子の背もたれに体重をかけて吐息を漏らす。

「ストーカー女も遺体と一緒に暮らしているってことか……? とんでもない奴じゃないか……」

「確証はないけれど、可能性は高いんじゃないかね」

 音濱はポリポリと浅漬けのきゅうりを齧って言葉を継ぐ。

「俺は鈍感らしくて、そこがいいらしい」

 解せずに小首を傾げると、音濱は無精髭が薄く生えた頬を掻いた。

「腐敗した遺体から染みだした体液が床に広がる物件だろうが、ゴキブリが這うゴミ屋敷だろうが、片付けてしまえば無くなる。いらないものは、どんどん捨ててしまえばいい。そういう仕事だ。割り切って作業すればいい」

 腐敗臭や遺体の痕跡がある家や、害虫が蠢く家に足を踏み入れるのを嫌がる人は多いだろう。

 そんなところの片付けは、俺には出来そうにない。

「匂いってさ、嗅ぎ慣れてしまうんだろうなあ。ほら、自分の体臭とかって分からないっていうよな」

「ああ、よく聞くな」

「てっきり、俺が鈍いから平気なのだと思ってたけど……」

 音濱は俺のグラスと自分のグラスにウィスキーを注ぐ。

「見神はさ、気づかなかった?」

「なにを?」

 音濱はじっとこちらを見つめて言った。

「この家も同じ匂いがする、ってこと」

 カラン、とグラスの中の氷が溶けて妙に大きく音を響かせる。

 言葉を失う俺に音濱は滔々と話しはじめた。

 なんでもこの家は老夫婦が住んでいたが奥さんが家で病死し、旦那はそのまま遺体を放置していたそうだ。

 遺体は布団に寝かされ、その周囲には何十個もの置き型の消臭剤が囲むように置かれていたという。

 夫婦はカルトめいた宗教に入信しており、信仰心があれば死者は甦ると本気で信じていたようだ。

「その遺体はどの部屋にあったんだ?」

「北側の奥にある部屋。今は物置になっている」

 俺が使わせてもらっている部屋ではないことに少しだけ安堵する。

「家に染みついた匂いってのは、リノベーションしても簡単には消えないらしい。俺が住み始めた当初は、たまにあの臭いがしたけれど、鼻が慣れてしまうんだろうな。今は全く感じられないんだよなあ……」

 のんびりと呟く音濱の様子に、俺の背中に冷たいものが走った。



 腐臭を纏ったストーカー女はその後、俺の前に姿を現すことはなかった。

 学校への電話もなくなり、俺は一ケ月後には音濱の家を出て、他の住まいへと引っ越しをした。

 警察も行方が掴めず、彼女は野放しのまま時が過ぎていった。

 そして今――

 俺は依頼人の部屋の中であの臭いを感じている。

 なにかが腐った匂いと、人工的な消臭剤の混じった甘いような饐えた匂い。

「今日はよろしくお願いしますねぇ」

 甲高い声が背後からして、俺は追憶から引き戻された。

 それに続いて「くひゅー」という空気の抜けるような妙な笑い声が耳を打った。


〔了〕

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