面倒なことは避けたいだけの俺が、世界で唯一の『運命干渉』スキルに目覚めてしまったので、全力で平穏な日常を守ることにした。〜とある事なかれ主義の現代異能物〜【未完】
パラレル・ゲーマー
第1話 境界線上のノイズ
高槻涼(たかつき りょう)の人生は、彼自身が望んで選択した、完璧なまでの「凪」の状態にあった。
風もなければ、波もない。ただ、どこまでも続く水平線のように、昨日と同じ今日が、そして今日と同じ明日が、静かに、そして退屈に続いていく。それが、彼の理想とする生き方だった。
東京都下に位置する、可もなく不可もない私立高校の二年生。教室の窓から三番目、廊下側から二番目の席。そこが、彼の定位置。世界の中心でもなければ、隅でもない。その他大勢という名の、巨大なモザイク画を構成するための一つのピース。彼は、その役割に心からの満足を覚えていた。
「――だからさー、昨日ミカが言ってたんだけどぉ」
放課後の、気怠い西日が差し込む教室。涼の前の席では、女子生徒たちが、今日もまた昨日と寸分違わぬ人間関係のグラデーションについて語り合っている。誰が誰を好きで、誰が誰の陰口を言っていたか。その会話には、友情と、嫉妬と、ほんの少しの悪意が、複雑なマーブル模様を描きながら渦巻いていた。
涼は、その会話に耳を傾けるでもなく、ただ窓の外を眺めていた。彼の耳には、彼女たちの声は意味を失ったBGMとしてしか届いていない。彼は、知っている。あの会話に一歩でも足を踏み入れれば、面倒なことになるということを。「涼君はどう思う?」などと、意見を求められるのはご免だった。肯定すれば同調したと見なされ、否定すれば敵対したと見なされる。沈黙は、卑怯者の烙印を押される。正解など、どこにもない。ならば、最初から関わらない。それが、高槻涼が16年の人生で学び取った、最もクレバーな生存戦略だった。
事なかれ主義。
言うは易しだが、実践するのは存外に難しい。人間という生き物は、本能的に他者と関わり、群れ、そして面倒事を起こすようにできているからだ。だが、涼はその点において、一種の天才だった。彼は、卓越した観察眼と危機回避能力によって、あらゆる人間関係の地雷原を、まるで舞を舞うかのように軽やかにすり抜けてきた。クラスメイトの誰もが、彼のことを「悪い奴じゃないけど、何を考えてるかよく分からない奴」と認識していた。それこそが、涼が望んだ最高のポジションだった。
チャイムが、一日の終わりを告げる。
その解放の合図と共に、教室は一斉に喧騒に包まれた。部活へ向かう者、塾へ急ぐ者、駅前のファーストフード店での他愛のないお喋りの計画を立てる者。その、ありふれた放課後の光景を、涼はゆっくりと鞄に教科書を詰め込みながら、まるで遠い異国の風景でも眺めるかのように見ていた。
(……さて、帰るか)
彼には、部活もなければ、塾もない。家に帰って、昨日の深夜アニメの録画を見て、ネットの海を少し漂って、そして眠るだけ。完璧な、凪の一日。
彼が席を立とうとした、その時だった。
「――なあ、高槻」
背後から、声をかけられた。
涼の肩が、ほんの僅かに、しかし確かに強張った。振り返ると、そこに立っていたのはクラスのリーダー格である、バスケ部の鈴木だった。その隣には、サッカー部の田中もいる。二人とも、涼とは住む世界が違う、陽の当たる場所の住人だ。
「わりいんだけどさ、今日の清掃当番、代わってくんねえかな? この後、練習試合でさ」
その、あまりにも一方的で、あまりにも傲慢な頼み事。
涼の脳内で、警報が鳴り響いた。
面倒事だ。
断れば、角が立つ。「付き合い悪い奴」というレッテルを貼られ、明日からの教室での居心地が僅かに悪くなるだろう。
受け入れれば、自分の貴重な凪の時間が30分は奪われる。それは、彼の信条に反する。
彼の思考が、神の速さで最適解を弾き出す。
「……ああ、ごめん。今日、歯医者の予約入れてるんだ」
その、あまりにもありふれて、しかし完璧な嘘。彼の表情には、罪悪感も、動揺も、何の色も浮かんでいない。
「そっか。わりい、引き留めて」
「ううん、気にしないで」
鈴木たちは、あっさりと引き下がっていった。
完璧な、危機回避。涼は、心の中で小さくガッツポーズをした。
そうだ。これでいい。こうやって、さざ波一つ立てずに生きていく。それが、俺の人生なんだ。
彼は、誰にも気づかれることなく、教室の喧騒の中からすっとその身を抜き出すと、昇降口へと向かった。
自分の人生の主役は、自分でなくていい。
自分は、ただの観客でいいのだ。
そう、彼は心の底から信じていた。
まさか、その数十分後、自らが世界の理を根底から揺るがす物語の、ど真ん中へと引きずり込まれることになるなど、夢にも思わずに。
§
校門を出て、駅へと向かう、いつもの通学路。
じりじりと肌を焼くような西日が、アスファルトの上の陽炎を揺らめかせている。涼は、ポケットからスマートフォンを取り出すと、イヤホンを耳に差し込んだ。外界のノイズを遮断するための、彼のささやかな儀式。画面をタップし、お気に入りの、歌詞のないアンビエントミュージックを再生する。
これで、準備は整った。
ここから自宅までの30分間は、誰にも邪魔されることのない、彼だけの聖域(サンクチュアリ)だ。
彼は、周囲の景色が意味を失っていくのを感じながら、ただ無心で歩き続けた。
やがて、彼の前方に、この辺りでは最も大きな交差点が見えてきた。数え切れないほどの自動車と、人々が行き交う、都市の血管が交わる場所。
信号が、赤に変わる。
涼は、大勢の群衆と共に、横断歩道の手前で足を止めた。
彼の思考は、ぼんやりとしていた。今晩の夕食は何だろうか。昨日のアニメの続きは、どうなるのだろうか。そんな、どうでもいい、しかし平和な思索に、彼の意識は漂っていた。
その、時だった。
ふと、彼の視界の隅に、奇妙な「ノイズ」が映り込んだ。
それは、色ではなかった。光でもなかった。
それは、まるでこの世界のテクスチャが一部だけ剥がれて、その下のレイヤーが剥き出しになってしまったかのような、形容しがたい違和感。
涼は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、それを見てしまったのだ。
「………………は?」
彼の口から、間の抜けた声が漏れた。
彼の目の前、群衆の最前列で同じように信号待ちをしていた、一人の少女。同じ制服を着ているから、おそらく同じ高校の生徒だろう。耳には、彼と同じように白いイヤホン。長い黒髪が、気怠い夏の風に揺れている。
その少女の、心臓のあたりから。
一本の、禍々しいほどに鮮やかな「赤い糸」が伸びていた。
それは、比喩ではなかった。
それは、あまりにも明確に、あまりにも現実的に、そこに「存在」していた。
糸は、生きているかのようだった。それは、まるで剥き出しになった動脈のように、どく、どくと、不気味な脈動を繰り返している。その色は、ただの赤ではない。それは、乾ききっていない、生々しい血の色。その糸を見ているだけで、涼の魂の奥底で、原始的な恐怖と嫌悪感が警鐘を鳴らしていた。
なんだ、これ。
幻覚か?
涼は、何度も瞬きをした。目を強く擦ってみた。だが、その赤い糸は消えない。それどころか、より一層、その存在感を増しているようにすら見えた。
彼は、恐る恐る、その糸がどこへと続いているのか、その目で追ってみた。
糸は、少女の胸からまっすぐに伸び、交差点の向こう側へと続いていた。そして、遥か彼方、数百メートル先の道路の向こう。交差点へと猛スピードで近づいてきている、一台の大型トラックの運転席へと、確かに繋がっていた。
「………………」
涼の思考が、完全に停止した。
なんだ。
なんだ、これは。
俺は、疲れているのか? 最近、寝不足だったからか? それとも、ついに何か、精神の病にでもなってしまったのか?
彼の、その論理的で、常に冷静だったはずの脳が、目の前のあまりにも非現実的な光景を、処理しきれずにショートしていた。
「……あ、あの……」
気づいた時、彼は、その少女に話しかけていた。
彼の信条である「事なかれ主義」が、初めて、彼の制御を離れて暴走した瞬間だった。
少女は、イヤホンから流れる音楽に夢中で、彼の声に気づかない。
涼は、意を決して、もう一度、少しだけ大きな声で話しかけた。
「……す、すみません!」
少女の肩が、びくりと震えた。彼女は、ゆっくりと振り返ると、片方のイヤホンを外した。その大きな瞳が、困惑の色を浮かべて、涼を見つめている。
「……え? あ、はい。なんでしょうか?」
その、あまりにも普通で、あまりにも可憐な反応。
その少女の、そのあまりにも普通な日常の中に、自分だけが見えているこの異常な「糸」が存在しているという、そのあまりにも大きなギャップ。
涼は、パニックに陥った。
「あ、いや……。その……」
何を言えばいい?
『あなたの胸から、トラックに向かって、血みたいな色の変な糸が伸びているんですけど』とでも言うのか?
言えるわけがない。
間違いなく、頭のおかしい変質者だと思われる。警察を呼ばれて、終わりだ。
「……えーっと……。その、なんですか、それ?」
涼は、震える指で、少女の胸元を、しかし直接は指ささずに、曖-昧に示しながら言った。
少女は、きょとんとして、自らの胸元を見た。
そこには、当然、何もない。ただ、制服のリボンが、風に揺れているだけ。
「……それ、とは……?」
彼女の瞳に、困惑の色が、さらに深い不審の色へと変わり始めているのを、涼は敏感に感じ取った。
まずい。
これは、最悪のパターンだ。
彼の、卓越した危機回避能力が、けたたましい警報を鳴らしていた。
引け。今すぐ、ここから引け。
「あ、いや! すみません! なんか、服に糸くずでもついてるのかと思って……! でも、見間違いみたいです! すみません! 本当に、すみませんでした!」
涼は、自分でも何を言っているのか分からないまま、早口でまくし立てると、深々と頭を下げた。そして、彼女から数歩、後ずさるように距離を取った。
少女は、まだ何か言いたげな顔をしていたが、やがてふいと前を向き直り、再びイヤホンを耳に戻してしまった。
涼の心臓は、破裂しそうなほど激しく鼓動していた。
(……危なかった……)
人生最大級の、コミュニケーションの失敗。
彼は、額に滲む冷や汗を手の甲で拭った。
(……疲れてるんだ。そうだ、絶対にそうに違いない)
彼は、自らにそう言い聞かせた。
(もう、考えるのはやめよう。家に帰って、風呂に入って、さっさと寝てしまえば、明日にはきっと、こんな幻覚は消えているはずだ)
彼は、そう結論付けた。
そして、二度と少女の方を見ることなく、ただひたすらに、信号が青に変わるのを待った。
だが、それでも。
彼の視界の隅で、あの禍々しい赤い糸が、どく、どくと、まるで嘲笑うかのように、その脈動を続けているのが、嫌でも見えてしまっていた。
そして、彼は気づいてしまった。
その脈動のスピードが、先ほどよりも、ほんの僅かに、しかし確実に、速くなっていることに。
まるで、何かのカウントダウンが、始まってしまったかのように。
信号が、チカチカと点滅を始めた。青に変わる、予兆。
群衆が、僅かに前へと身じろぎする。
涼の、その本能が、叫んでいた。
危ないと。
だが、彼の理性は、それを頑なに否定した。
(……関わるな)
(……見間違いだ。幻覚だ)
(……俺には、関係ない)
(……面倒なことになるのは、ご免だ)
少女は、一歩、横断歩道へと足を踏み出そうとしている。
あの、大型トラックが、明らかに速度を落とさずに、交差点へと突っ込んできている。
運転手は、居眠りでもしているのか?
赤い糸が、まるで張り詰めた弓のように、ぴんと伸びきった。
その脈動が、最高潮に達している。
――危ないッ!!!!
涼の思考が、そう叫んだ、まさにその瞬間。
彼の身体は、彼の意志とは全く無関係に、動いていた。
右足が、地面を蹴る。
人混みを、強引にかき分ける。
彼の、その「事なかれ主義」という名の、分厚い理性の鎧。
それが、生命の最も根源的な、生存本能という名の衝動によって、内側から粉々に打ち砕かれた。
「――っぶねえ!!!!」
彼の口から、自分のものではないような、嗄れた声が飛び出した。
彼は、少女の細い腕を、ほとんど暴力的に掴み取った。
そして、ありったけの力で、自らの後ろへと引き倒した。
「きゃっ!?」
少女の、小さな悲鳴。
それと、ほぼ同時だった。
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
一つの、巨大な鉄の塊が。
凄まじいエンジン音と、空気を切り裂く轟音と共に、二人がほんの数秒前まで立っていたはずの空間を、猛烈な勢いで通り過ぎていった。
トラックの巨体が巻き起こした暴風が、二人の髪を激しく揺らす。
熱。
匂い。
そして、死の、圧倒的な気配。
キキイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!!
甲高い、タイヤの摩擦音。
白い煙。
周囲の車からの、けたたましいクラクションの嵐。
そして、群衆の、悲鳴と怒号。
世界が、一瞬だけスローモーションになり、そして次の瞬間には、現実の音と色を取り戻していた。
「………………え…………?」
涼の腕の中で、尻餅をついたままの少女が、呆然と呟いた。
彼女の視線の先には、交差点の中央でようやく停止した大型トラックと、その運転席から慌てて降りてくる、顔面蒼白の運転手の姿があった。
涼は、まだ少女の腕を掴んだまま、その場に立ち尽くしていた。
心臓が、肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほど、激しく、痛いほどに鳴っている。
足が、震えている。
彼は、ゆっくりと、少女の胸元へと視線を落とした。
あの、禍々しい赤い糸は。
いつの間にか、跡形もなく、綺麗に消え去っていた。
「……あ、あの……」
少女が、おずおずと顔を上げる。
「……助けて、くれて……。……ありがとう、ございます……」
その、震える声。
涼は、はっと我に返った。
そして、慌てて彼女の腕から手を離し、自らも尻餅をつくように、その場にへたり込んだ。
「……い、いや……。……俺は、別に……」
何を言えばいいのか、分からなかった。
周囲から、人々が集まってくる。
「大丈夫か、君たち!」
「今の、見たか!? あの兄ちゃんが、女の子を!」
「ヒーローじゃねえか!」
賞賛と、好奇の視線。
涼にとって、それは、あのトラックよりも遥かに恐ろしいものだった。
彼は、顔を上げた。
少女が、まだ震える足で立ち上がりながら、それでも彼に向かって、深々と頭を下げていた。
その、あまりにも真っ直ぐな感謝の視線。
涼は、もう耐えられなかった。
彼は、ふらふらと立ち上がると、人混みをかき分け、そしてただひたすらに、その場から逃げ出した。
背後から、少女の「あ、待って!」という声が聞こえた気がしたが、彼は振り返らなかった。
彼は、走った。
何から逃げているのか、彼自身にも分からなかった。
あの、赤い糸からか。
トラックからか。
それとも、少女の感謝の視線からか。
あるいは。
自らの意志を裏切って、勝手に動き出した、自分自身の身体からか。
彼は、自宅までの道のりを、どうやって帰ったのか、全く覚えていなかった。
気づいた時には、彼は自室のベッドの上で、制服のまま、大の字になって倒れていた。
天井の、見慣れたシミ。
だが、そのシミは、もはや昨日までと同じ、退屈な日常の象徴ではなかった。
それは、彼が信じてきた「凪」の世界に、大きな、大きな亀裂が入ってしまったことの、動かぬ証拠のように、彼の目に映っていた。
(……なんだったんだ、一体……)
彼の、その完璧だったはずの平穏な日常は。
今日、この日、この瞬間をもって、永遠に、そして決定的に、終わりを告げた。
その、あまりにも理不尽で、あまりにも面倒な物語の始まりを告げる、けたたましいファンファーレの音だけが、彼の耳の奥で、いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。
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