魔女の工房で、おやすみの魔法を

速水静香

第一話:聞こえるは、あなたの心の音

 ざあ、と遠くで木々が揺れる音がする。

 天井の木目を数えるのは、もう何度目になるだろうか。簡素なベッドの上で、僕は身体の向きを変えた。

 ギシ、と古い木材が軋む音が、静かな部屋にやけに大きく聞こえる。ここに来てから、ずっとこうだ。夜になると目が冴えてしまう。


 知らない天井、知らない匂い、知らない音。そのすべてが、僕の意識を覚醒させて、眠りの縁から突き放す。


 窓の外では、リン、リン、と鈴を振るような虫の声が絶え間なく続いている。僕が元いた場所では聞いたことのない、澄んだ音色だ。綺麗だとは思うけれど、その異質さが、ここが僕の知らない世界なのだという事実を改めて突きつけてくる。

 僕はゆっくりと上半身を起こした。ひんやりとした空気が肌を撫でる。彼女が貸してくれた寝間着は、少し大きくて、でも肌触りが良くて、そして彼女と同じ、心を落ち着かせるハーブの香りがした。


 この部屋を与えられてから、数日が経った。

 深い森の中で倒れていた僕を助けてくれたのは、セレスティアと名乗る、美しい魔女だった。彼女はこの森の奥深くにある工房で、たった一人で暮らしているらしい。

 彼女は僕に食事を与え、寝床を用意してくれた。けれど、僕がどうしてここにいるのか、どうすれば元の場所に帰れるのか、その問いには、静かに首を横に振るだけだった。


 トク、トク、と自分の血液が流れる音が、耳の奥でやけに大きく主張している。不安、という言葉だけでは片付けられない感情が、胸のあたりにもやもやと広がっていた。

 その、時だった。


 コツ。


 部屋のドアから、とても小さな音がした。

 僕は身じろぎもせず、ドアの方を見つめる。聞き間違いだろうか。こんな夜更けに、誰かが訪ねてくるはずがない。この工房には、僕と彼女の二人しかいないのだから。


 コツ、コツ。


 今度は、はっきりと聞こえた。誰かが、指の関節でドアを優しく叩いている音だ。

 緊張で、喉がカラカラに乾く。


「……どなた、ですか」


 自分でも驚くほど、か細い声が出た。

 返事はなかった。代わりに、ゆっくりとドアノブが回る、カチャリ、という金属音がする。そして、キィ……、と蝶番の軋む、長い音を立てて、ドアが静かに開かれた。


 そこに立っていたのは、月明かりを背にしたセレスティアだった。

 彼女の銀色の長い髪が、窓から差し込む青白い光を受けて、柔らかな輝きを放っている。逆光で表情はよく見えないけれど、その姿は、まるで一枚の絵画のようだった。


「……セレスティア、さん?」

「……ふふ。驚かせてしまったでしょうか」


 彼女の声は、まるで囁きのようだ。澄んでいて、けれどどこか儚げな、夜の空気に溶けてしまいそうな声。

 彼女は音もなく部屋に入ってくると、僕が起き上がっているのを見て、少しだけ紫色の瞳を見開いた。


「やはり、眠れていなかったのですね」

「え……」

「あなたの心の音が、私には聞こえてきます。少し、波立っているみたい……」


 そう言って、彼女は僕のベッドの傍らに、そっと腰を下ろした。フワリ、と彼女の身体から、ラベンダーとカモミールが合わさったような、甘く優しい香りが流れ込んでくる。僕が着ている寝間着よりも、ずっと濃密な香りだ。


「心の、音……?」

「ええ。言葉にしなくても、伝わってくるものがあるのです。特に、あなたのように、心が綺麗な方の音は」


 彼女はそう言うと、心配そうに僕の顔をのぞき込んできた。長い銀髪がサラリと肩からこぼれ落ちて、その一部が僕の腕に触れる。シルクのように滑らかな感触に、身体がびくりと反応してしまった。


「ごめんなさい。冷たかったでしょうか」

「い、いえ、そんなことは……」


 慌てて否定する僕を見て、彼女はくすりと小さく笑った。その笑い声は、チリン、と小さな銀の鈴が鳴るような、可愛らしい音だった。


「慣れない場所ですものね。無理もありません。私も、昔はそうでしたから」

「セレスティアさんも……?」

「ええ。とても、昔のことですけれど」


 彼女は少しだけ遠くを見るような目をした。その紫色の瞳には、僕の知らない長い時間が映っているような気がした。


「……あの、どうして僕が眠れていないって……」

「あなたの部屋の前から、ずっと小さな物音がしていましたから。寝返りを打つ音、シーツが擦れる音、そして……あなたの、ため息の音」


 そこまで見抜かれていたことに、なんだか顔が熱くなるのを感じた。


「すみません、うるさくして……」

「いいえ、謝らないでください。あなたのせいではありません。むしろ、気づいてあげられなくて、ごめんなさい」


 彼女はそう言うと、僕の頭に、そっと手を置いた。ひんやりとして、けれど不思議と安心する、優しい手のひらだった。彼女はそのまま、ゆっくり、ゆっくりと、僕の髪を梳くように撫で始める。


 サリ、サリ……。


 彼女の指が髪を撫でる、小さな音がする。その規則正しいリズムと、優しい感触に、強張っていた身体の力が、少しずつ抜けていくのを感じた。


「……温かい、ですね。あなたの髪」

「……」

「まるで、陽だまりのようです」


 彼女の囁き声が、すぐ耳元で聞こえる。その声に耳を澄ませていると、窓の外の虫の声も、遠くの木々が揺れる音も、だんだんと意識から遠のいていくようだった。ただ、彼女の指の感触と、囁き声と、優しいハーブの香りだけが、僕の世界のすべてになった。

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