『利己中スイッチ押しますか』


 いつもと同じ帰り道。

 今夜は街灯が、やけに暗かった。

 霧が出ているのか、疲れ目で霞んで見えるのか。

 考えるのも億劫だったが、私の思考は数秒で凍りついた。


 大きな日本人形が、こちらを見ている。

 いや、赤い着物姿の少女なのか。

 頭身が子どものそれではなく、顔も筆で描かれたものに見えた。

 だが、ゆらゆらと動いている。


 通勤ラッシュの時間帯だ。

 駅から住宅地へ続く道は通行人も多いはずだが、今は誰の姿もない。


 いつも満車の駐車場から、車も全て消えている。

 代わりに、着物姿の少女がひとり。

 灰色の箱のようなものを、大切そうに抱えていた。


『あなたを、待っていました』

 石を擦るような囁きが、私の耳に届く。

 私の立つ歩道から、少女が居る駐車場中央まで多少の距離がある。

 それでも少女の声は不思議と、こちらに伝わってきた。


 5歳児ほどの背丈の日本人形が、私を見てにっこりと笑った。

 目を離す事ができなかった。

 私の足はフラフラと、駐車場へ向かっていく。


利他りた、という言葉を知りました』

 近付く私を見上げ、少女が言った。

「……りた?」

『自己中の反対語として使える言葉だそうです』

「へぇ……」

『利己的の反対も、利他的。全て自分が中心の自己中とは少し違う、利己的な人っていますよね?』

「いますね」

『これは、自分だけの利益や快楽を最優先にする、利己的な人間が死滅するボタンです。利他的な人を利用する利己中に限定いたしましょう。押しますか?』

 少女は、抱えていた灰色の箱を差し出した。

 箱の上には、丸く黒い突起があった。


「範囲は?」

 と、私は聞いた。

『日本です』

「なら大丈夫か。でもなぁ……やっぱり、ごめんなさい」

『そうですか。あなたの不幸が祓われますように』

 少女が箱から手を離し合掌しても、その箱は少女の前に浮いていた。


 ふわりと、少女が周囲の空気ごと遠ざかるような感覚があった。



 気が付くと、私は歩道を歩き続けていた。

 いつもと同じ帰り道。

 自転車が横を通り過ぎ、街の喧騒に包まれる。


 振り返ると、駐車場には自動車が並んでいる。

 着物少女の姿はない。

 疲労で朦朧としていただろうか。それとも、願望による幻覚か……。


 ボタンを押せなかった私は、

「自信をもって押せる人の前にも、あの子が現れますように」

 と、ひとり呟いていた。

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