好きなものを好きなだけ、もういつだってあげられるから

れん

好きなものを好きなだけ、もういつだってあげられるから

 ずっと前から通っている牛丼屋がある。

 チェーン店が流行る前から牛丼はそこの定番メニューだったが、定食やカレーもあったから正しくは牛丼屋ではないんだろう。でも俺はそこでは牛丼しか食べない。そこのは少し変わっていて、多分拘りがあるんだ。

 そんなに大判じゃないバラ肉が平らに敷き詰められた上に、中身が半熟のゆで卵がぽんとひとつ乗っている。すき焼きみたいに甘くて濃い味付けも俺には珍しかった。甘い牛丼も美味いと思った。

「……甘い、……」

 最初にそこに連れて行ったとき、あの子も同じことを言った。

「初めて食べました、甘い牛丼。すごい、おいしい……」

 感想はまるきり子どもみたいだった。単純な言葉を繰り返すだけで、食レポのような美文はついぞ出ない。でも俺には、それが嘘やお世辞には聞こえなかった。素直でいい子だと思っていたあの子が、俺と同じことを感じていたのがはっきり見えて、嬉しかった。

「卵、半熟のゆでたまご、面白いですよね」

「ん?ああ、そうだな、生卵はよくあるけど」

 俺も初めはそう思った。追加で頼んだわけでもないのに、割ると黄身が零れてくる卵が最初から乗っている牛丼には、俺も出会ったことがなかったからだ。

「好きなんです、半熟卵。ていうか黄身のとこが。固まってるのじゃなくて、とろっとしたままのやつの方が、なんですけど」

「へぇ」

「黄身だけ食べようとすると怒られるじゃないですか。だけど半熟卵って、堂々と黄身だけ食べていいよって許可されてるみたいで」

 あの子は丼の中に向かって、将来の夢を語るみたいな口調で囁いた。それから割った黄身に、カウンターに備えつけの小瓶から追い醤油をして、うん、と跳ねるように頷きながらそいつを頬張った。

「食べるか?俺のも」

 好きなんだろうと思った。

 卵が大好きで、この珍しい、甘い味が気に入ったんだと思ったから、俺はまだ手付かずで残してあったままの半熟卵を、丼ごとそっちに差し出した。

「いいんですか?」

「せっかくだから」

 何がせっかくなのかは俺にもわからない。初めて来たからか?まぁ適当に言葉を繋げただけだ、大した意味はない。

「じゃあ……いただきます」

 醤油の小瓶の隣に重ねてあった小皿を一枚手に取って、あの子は俺の半熟卵をそこへ一旦移した。そこからもう一度、今度は自分の丼の上に乗せ替える。

「んしょ」

 ぷちりと千切った白い型から溶け出した幸せ色が、重なり合って待っていた甘い絨毯の隙間に吸い込まれていく。

 一見すき焼きみたいになったそいつらを余さず器用にくるりと摘み上げて一気に丸呑みしたあの子は、元々はまんまるの瞳を睫毛で覆い隠しながら言った。

「ふふっ、卵、好きでよかったぁ」



 まだ付き合い始める前の話だ。

 それからも俺とこの子は何度もそこへ通った。夏は冷やし中華、冬は豆乳鍋がおすすめに掲示されたが、俺たちは揃って牛丼を注文し続けた。そしてその度に、俺はこの子に半熟卵を渡した。

 気に入られたかった。この男は心が広くて、一緒にいるといいことがあると思われたかった。自分を良く見せるためにいつもあれこれ考えて、あの半熟卵でさえ利用していた。

 俺は、この子のことが好きだったからだ。

「……」

「……」

 好きな気持ちに変わりはない。でも、あの頃とはたくさんのことが変わった。

 少しだけ歳を取ったし、給料が上がった。ひとり暮らしだった俺は、ふたりで同じ部屋を借りるようになった。

 卵を譲る理由も、自分のためじゃなくなった。

「……」

「……」

 何も言わないでひたすら牛丼にかぶりつくこの子が、俺と同じように、傍にいられるだけで幸せだと感じてくれていることを、俺に幸せだと感じてほしいと願ってくれていることを、俺は知っている。

「……」

「……」

 目を合わせるだけで済む。いや、考えを伝えるのに、場面次第じゃそれさえいらない。

 俺の半熟卵は、今日もするりと隣に持ち去られていった。

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