21話 はじめての恋の終わり。

この日、朝から離宮は異様なほど賑わっていた。

半月後に迫った戴冠式に向けて、本城へ移る準備がはじまったからだ。

邸内の廊下には、侍女や従者たちが荷物を運び、声を掛け合い慌ただしく人がいきかう。


「殿下、こちらの荷は運びますので、殿下はあちらでお休みくださいませ」

そう言われ、まるで邪魔者のように、部屋を追い出されてしまう。


仕方なく中庭にでるが、外もまた引越しの大移動でごった返している。

人、人、人。

こんなに多くの者たちが、この“空気の王子”ユリウスのために集められていたとは──。


オレが、ずっと一人きりで過ごしてきたこの離宮。

冷たく静まり返った部屋に、物音すらなかった日々。

その場所から、こんなにも多くの荷が運びだされていくなんて。

なんだか──おかしくて滑稽に思えた。


追われるように、森の方へ足を向ける。

まるでこの場所だけが、さっきまでの喧騒とは別の時間を生きているみたにしん、と静かさに包まれていた。


少し前、中庭の脇道で、暴漢に襲われたことがよぎったが、今のオレには再び襲われる恐怖だとか、そんなものはどうでもよくて…。

──ただ今はひとりになりたかった。


ゆっくり歩みを進めると、木々の向こうに水面がきらりと光り波一つない、鏡のような湖面に、白く澄んだ空がうつっていた。

足を止めて空をあおぐ。


空を見あげるなんて、一体どれくらいぶりだろう。空が、丸くみえた。

こんなにも空って、広かったんだな…。


開かれたはずの空の下にいても、どこかまだ“閉じ込められてる”気がする。

きっとそれは永遠に開けられない扉なのかもしれない──。


冷たい風が頬をかすめて、ふっと我にかえる。


そういえば、この湖の奥をさらに行くと、その先に、エリュシオン寺院がある。

木々をすり抜けて、湖に沿って歩みを進めると、”来たことがある”そんな記憶がふってきた。


ずっと昔──誰かと、馬を走らせて。

その人は、たしかこう言っていた。


『この湖はね、星に月が近づく日にだけ、底が見えるんだよ』


──まただ。

記憶の断片の欠片たちが、ほんの少しだけ、ほんの僅かだけもどってくる。

それが、いつのことなのか、誰だったのか、過去の記憶はあいかわらずはっきりしないというのに。


これも──皇帝の呪いなのか。


過去の記憶を支配されてまで、オレは王の器として生きて行かなければいけないのか。

誰かの手の中で生きて行くことは本当の意味で自由とはいえない。

──今のオレは籠の中の鳥そのものだな…

そんなことを、頭の中でぼんやりと反芻する。


音もなく、風が頬をかすめる。

最近はずっと、話し相手といえば自分自身だ。

気がつけば、独り言ばかり増えてしまっていた。


──この三月みつきの間、何をして、何を感じて、生きていたのかよく思い出せない。


『──人は、新しい記憶を覚えるたび、自然と古い記憶を奥に閉まって行くものですから』


そう、オレに語りかけてくれた言葉を胸に刻んで。ただひたすら、がむしゃらに。

振りかえることも、考えることもせず──。

ただ、前へ、前へと進み続けていた気がする。

──もう、オレにはそうするしかなかったのだから。


昼間の間は、変わらずインフィニタスの四人が傍にいてくれた。

けれど、夜になると、人払いをして独りになる。あれだけひとりの孤独をおそれていたはずなのに。

きっと、自分の中のぽっかり空いた空洞を、誰にも見られたくなかったのかもしれない。


そのとき──、

木の向こうから人の気配と、微かな足音がした。

咄嗟に、オレは木の影に身をかくす。

風が枝をゆらす音にまぎれて、足音がゆっくりと近づいてくる。

そっと、その隙間から覗いた瞬間──。


「……っ!」


深い漆黒の軍服に包まれ、銀の髪はあの日と同じようにきっちりと整えられている。

何ひとつ、変わっていない──その歩き方も、表情も。

冷たく張りついた横顔。誰にも触れさせない、完璧な静けさ。


ソアラ──!


息が止まりそうになる。

ゼノを護衛につけ、こちらに向かって歩いてくる。

全身がふるえて、息を潜めるのも精一杯。

額に汗がにじむ。

深い霧の中に閉じ込めたはずの記憶が、パズルのピースみたいに音を立てて頭の中で組みあがる。

バラバラだった感情の欠片が、一つ、また一つと、形を取り戻していくように。


はじめて出会った、あの月の夜。


「お守りします」

そう言ってくれたあのことば。


剣を抜いて、オレが抱いていた“騎士”への憧れを、笑うことなくそっと讃えてくれたこと。


初めての社交界。

乗り気じゃなかったオレに、何もいわず寄り添って視線の先でやさしく見守ってくれていたこと。


苛立ちも、不貞腐れも、落ちこみも──いつだって正確に測って、「あと少しで落ち着きますよ」と穏やかに導いてくれたこと。


命令でも、はじめて肌をかさねた夜。

戸惑うオレに触れるその手は、どこまでもやさしくて、熱くて。

キスをした時の、ふるえるような呼吸。

ただやさしいだけじゃなく、時に厳しくちゃんと叱ってくれたこと。


──そうやって、彼はいつだって、オレの味方でいてくれた。

たとえそれが、“皇帝に仕組まれた理”の上にあって、全部計算されたやさしさだったとしても。

……今、こうして目の前の彼を見てしまったら。


裏切りも、憎しみも、悲しみさえも──…

ゆっくり心の中で赦し、とかしていく。

隠していた気持ちが溢れだす。


赦すな、


忘れろ、


そう、理性が叫ぶのに、感情こころが全部、流れを変える。


ああ、やっぱり……

オレ、あの人のこと、今でもどうしようもなく好きなんだ──。


もう、自分を偽れない。

声をかけかけたい。

ふるえる手を今すぐ伸ばしたい。

そして、あなたに触れたい。


「ソアラ、今すぐここへ来て!」

「ソアラ、抱きしめて!」

「ソアラ、オレを……一人にしないで──」


君がいないと生きていけない。

オレのひかりが消えていく。


だけど叫びたい心を全身の力を込めて押し殺した。

今、ここで声をかけてしまったら、あの人はきっと、“従う”という名のやさしさで、オレを包んでしまう。


そんなもの今も貰ったら──オレはもう二度と立ち直れなくなる。


これで、いいんだ。

それぞれの道を、歩いていく。

あなたとの思い出を、この胸に抱きしめて──。

生きていくと、決めたのだから。


何度も、何度も、自分に言い聞かせるように。

手を伸ばさなかったこと。

声をかけなかったこと。


それは、オレなりの “さよなら” だから──。


……なのに、一粒目の涙が静かにおちると、二粒目からは堰を切ったみたいに零れ、喉奥から嗚咽がせりあがる。


目頭が焼けるように熱くなって、鼻水まで垂れてきて、わけがわからない。

ふるえが止まらない。情けなくて、みっともなくて、腕でごしごしと拭っても、全然たりない。

オレの中の水分、全部流れ出すんじゃないかってくらいに、あとからあとから涙がこぼれおちてくる。

足を地面にグッと踏ん張り、崩れおちそうになるのを必死にこらえながら、ふたりに気づかれないように声を殺して泣いた。


なんでこんなに恋って苦しいんだろう──

なんでこんなに愛って痛いんだろう──


人を好きになるってこんなにも苦しいって。

はじめてのオレの恋はこうして終わるんだ。


もう、前を向かなきゃいけない。

泣きじゃくる自分を、無理やりふるい立たせ。


──これがきっと、オレが選んだ、“自律”という名の強さであり。

ここからはじめる、“自立”という、新しい生き方だ。


彼らは、ゆっくりとこちらに気づくこともなく通りすぎていく。

オレは木陰から、息をひそめその背中を見送った。


ふと、ソアラのすぐ後ろにいたゼノと目が合った気がした。

何も言わないその瞳に、ほんのわずか──

ピンク色のゆらぎが、やさしく、滲んでいた。


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