第九章 自律から自立へ

20話 “なぁ?“じゃ、誤魔化せないこともあるよね。

*自律から自立へ*


重厚な彫刻が施された衣装箪笥の扉をためらいなく開け、その奥に掛けられていた、藍一色に染まった軍服を手に取る。


暮れなずむ空のような“藍”に染まったそれは、言葉にならないオレの感情を、そっと包みこむ。


“藍”は古くから、意思を示す色だと言われている。

このまま立ち止まっているわけにはいかない。情けない自分をここで終わらせたい。


ゆれる心に、せめて、色の力を借りて。

気持ちはまだ、すべて吹っ切れてはいない──それでも、もう一度、進むために袖をとおす。

胸を張り、乱れた寝癖も自分の手で整える。

鏡にうつる姿を、ほんの一瞬だけ見つめる。


深く、息を吸いこむと、まるで体内に新しい命が吹きこんでくるような気がしてくる。

ゆっくりと目を閉じて心の中で静かに呟いた。──前へ。


***


陽が落ち、本城の大広間には灯りが満ちていた。天井を仰ぐほどのシャンデリアが光を放ち、壁際には金銀に彩られた装飾が整然とならぶ。

貴婦人たちの艶やかなドレスが、目がくらむほどに眩しい。


けれど、そこにあるのは、ぬくもりではなかった。

以前はその冷たさに怯えていたけれど、今はちがう。

この世界に背を向けるのではなく、自分の意思で立ち向かう、そのために、ここにいるのだから──。


黒騎士に扮したゼノに伴われ、本城の大広間の扉を開けた。


「ゼノ、ありがとう。ここからはオレ一人で大丈夫だから」


自分でも、驚くくらいの強いことば。

一瞬、冷静沈着のゼノの瞳がゆれた気がしたけれど、オレは彼の手をゆっくり離し、一人大広間へと足を踏みいれた。


弦楽器の音色が、広間に優雅にひびいている。

貴婦人たちがドレスの裾をゆらしながら舞い踊り、わらい声と香水の匂いが空気に満ちていた。その中を、オレはまっすぐに歩く。視線を逸らさず、足も止めない。

やがて、聞こえてくる。

遠巻きに、でも確かに──オレに向けられた声たち。


「まあ、なんと珍しいお方。妾腹のユリウス王子がご出席とは」

「王位継承を正式に認められるんですって」

「うまくやったのよ、あのお顔で。陛下を取りこむなんて朝飯前でしょう」

「ほんと、あの女と同じね。欲の深さは親譲り」

「血筋って、やっぱり隠せないのね」

「それで、今日は? あの美しい騎士はご一緒じゃないのかしら」

「黒騎士のインフィニタス。命令にしか従わないお人形」


わらい混じりの毒が、飾り立てられた空間のそこかしこに潜んでいる。

こっちを見もしないくせに、刺すところだけは正確だ。


でも──オレは立ち止まらない。


もう怯えない。


あの日、自分の意思で“彼”と別れた意味を、無駄にしたくないから。


オレはただ、真っ直ぐ前を見据えたまま歩く。

今宵の主催者だという”親戚貴族”の前に立ち、静かに一礼をする。


「この度はご招待いただき、光栄です」

そう言って、口元だけで笑みをつくる。

返ってくるのは、よく整った、けれど何の温度もない挨拶。言葉のやりとりは滞りなく進む。


──それだけ。何も感じない。

思考も、心も、どこか遠くにあるまま。

息をするのも、表情を作るのも、今のオレにはただの“手順”でしかなかった。

空っぽの器だけが、ここに立っている。


──さあ、帰ろう。

今夜の“任務”は、これで終わりだ。

そう思って踵を返し、足を進めかけた時だった。


「ユーリ?」

不意に、名をよばれる。

その声に、思わず足が止まる。


“ユリウス王子”ではないその呼び名。

振り返ると──そこに立っていたのは、いつかの社交界でオレを散々コケにした、

あの──。

「マシルだよ。……覚えてないの?」


尋ねてもいないのに、勝手に名乗ってくるあたりは相変わらずだ。

キザに撫でつけられた金髪も、変わっていない。

オレは感情を押し隠したまま、ゆっくりと一礼した。


「お久しぶりです、マシル殿。ご健勝のようで、何よりです」

表情は崩さず、声にも棘は混ぜない。

ただ、礼儀としての挨拶を。

あの日の言葉を、オレは忘れていない──けれど、今さら感情をゆるがすほどの相手でもなかった。


「なんだよ、お前、そんな他人行儀な。俺とお前の仲だろ?」

マシルはつまらなそうにわらい、ちらりと周囲を見渡す。そして、少しほっとしたように口を開いた。


「……今日は、あの黒騎士の人形はいないんだな」

──相変わらず、無礼な物言い。


オレは内心、呆れながら淡々とかえす。

「“兄上”は、本日は公務があるので、参列していません」

自分の口から出たその呼び名に、思わず息を呑んだ。

“兄上”──そう、形式上はそうなるのだ。

偽りではない。


マシルの表情が、わずかに強ばる。

そういう細やかな変化を、オレは見逃さない。

あえて感情を込めず、ただ品位を保って、事実を述べる。それだけで、優位は自然とこちらに傾く。


「お前、なんか、雰囲気変わった?前に会った時は、妙にきょどっててさ、あの黒騎士に囲われるって感じだったけど。」


囲われてる?


オレが?


意外な言葉に一瞬驚いたが。周囲からはそう見えていたのかもしれない。

自分の感覚と、他人の感覚が必ずしも一致しないことは、わかっていた。


「──あの人形、マジ怖かったぞ? 今にも俺を成敗する勢いでさ。命賭けてたぞ、あれは」

マシルが冗談めかして愚痴をこぼす。


──確かに、あの日の“彼”は、騎士そのものだった。

オレが言えなかったことを、堂々と──気品を失わず凛として。

物おじ一つせずに言ってのけた。

オレの盾となり、矛となり、そして剣を刺す。

しかし、礼を失わず、威厳さえまとって。


「お前さぁ、昔から、必要以上に警戒して、自分に壁つくってさ。なんか感じ悪かったぞ?」

「…」

「でも、まぁさ、俺ら──案外、気が合うかもしれないな」

「……は?」

マシルはわらった。調子のいい、例のあの顔で。


「こうして再会できたのも、運命ってやつかもしれないし? なぁ?」

なぁ、って。

それ、語尾につけときゃ全部まろやかになる思ってるのか?

マシルは一歩、距離をつめ、声のトーンだけはそれっぽく落としてきた。


「実はさ……オレ、皇帝付きの騎士団に入りたくてさ。あの黒の人形──いや、ソアラさま。ユーリの”兄弟”なんだろ? ちょっと口添えとか、頼めたり……しない?」


──ああ。

そういうことね。

信じるのも、やさしさを与えるのも。やっぱり、相手を選ばなきゃダメなんだ。


「申し訳ないけど、それは無理かな。オレにはそんな権限ないし──」

一拍置いて、口元だけわらう。


「なにより、キミと”仲良くしてる”覚えは、一度もないから」

言った瞬間、マシルの笑顔がピキッ、とひび割れた。それだけ見届けて、オレは一礼し、その場をあとにする。


──やっぱり、“なぁ?“じゃ、誤魔化せないこともあるよね。



オレが歩くたび、周囲の貴族たちが一斉に頭を下げる。

深々と、礼儀正しく──まるで型に嵌められた人形のように。


王を継ぐというのは、つまりこういうことなのだろう。

敬意と服従を向けられる代わりに、誰にも本音をぶつけられず、やさしさの奥にも、視線の裏にも、計算が見え隠れする世界。


……やっぱり、この場所は、最初からオレの居場所ではなかった。



離宮に戻ったあと、部屋に入る気にもなれず、一人、月明かりが降り注ぐ石積みの塔の上の、ギャラリーに立っていた。

夜の冷たい風が、藍の軍服の裾を静かにゆらしている。

人払いをしてあるこの時間は、城に残る者は数人の侍従だけ。

─インフィニタスも、そして彼も──誰もいない。


あの日から、感情が──波を打たない。

苦しいのか、悲しいのか、怒っているのか。それすら、自分でもわからない。

満天の星が、頭上に煌めく。

まるで星が落ちて来そうなそんな、光景なのに……何ひとつ、胸にひびかない。


「……オレ、どうしたんだろ…」

月を見あげても、涙一つ出なかった。

きれいだと思う感情すらもうオレには残されていないのかもしれない。

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