ヒトシレズ
かましょー
第1話『大山宏文』
「はぁ」
信号の前でブレーキを踏むと助手席に置いていた紙袋が倒れた。
「あーもう」
袋からゴロゴロとこぼれ落ちた数個のゼリーを只々眺めていると〝ププッ〟と後方からクラクションを鳴らされ、慌ててアクセルを踏む。
あれ、今さっき赤になったばかりなのに…、ボーっとしてしまったのだろうか、ゼリーを拾う事もなく目的地へ向かった。
足取りは重い。アクセルも踏んでいるつもりだが、心なしか車のスピードも出ていない気がする。
家から車で10分程離れた所に団地がある。5階建ての3棟横並びで造設されたどこにでもある様な団地だ。
その団地の近くに車を路駐し、助手席に転がっていたゼリーを袋に戻す。
「……居るのかな」
紙袋を持ち、2号棟の204号室へと向かう。
そこに俺の親父は住んでいる。
表側の小窓カーテンは少し開いている。起きているのだろうか。
階段を上がり、ドアの前へと辿り着く。溜息に近い呼吸をし、インターホンのボタンへゆっくりと人差し指を近づけた。
「……」
茶色いインターホンを軽く触って……、俺は手を下した。
ボタンを押せなかった俺は予め用意していたメモ紙に「お土産食べて。宏文、真紀」と書き、紙袋へと入れてドアノブに引っ掛けた。
「……いっか」
紙袋のゼリーは真紀と旅行で行った山形の桜桃ゼリー。親父の事は正直よく知らないが去年他界した母が昔、親父はゼリーが好きだと話していた記憶が微かに真紀の記憶に残っており、俺に内緒で買っていたモノだ。
俺と同い年の妻、真紀は俺の母が亡くなってからやたらと俺と親父の事を気にかけてくる。俺にとっては余計なお世話でしかない。
土産を〝渡した〟俺は階段をササっと降りて車を職場へと走らせた。
仕事は大手ファッション通販サイトのWEBデザインやシステム構築等、プログラミングを任されている。仕事もすっかり慣れてきて毎日これといった刺激もなく、平凡な日々を送っている。
「大山さん、これ今日のプレゼン用ですよね?」
出勤早々、隣のデスクの正英が声をかけてきた。昨日作成したプレゼン内容の資料に赤ペンで何か書かれている。
「何これ?」
「昨日部長から直しがありました、社長はこっちの方が好むって」
月に数回、各部署のプレゼンテーションが社長交えて行われている。部長に頼まれ、昨日やっと完成したページ案に修正部分が記されていた。
「ん?柄よりサイズ先に選ぶようにするの?」
「みたいです」
「あと5時間しかないよ?」
「厳しいですよね?」
「はぁ……」
「無理なら言いましょうよ、部長に」
「いいって、なんとかやってみるよ」
「……そうですか」
正英はここへ来て1年ちょっとしか経っていない新人。年齢も俺よりだいぶ下だが言いたい事はズバズバ言ってくるブレーキの壊れたような人間だ。可愛げは無いが仕事も出来るし気が利かない訳でもなく、自分には害もないので特にストレス無く一緒に仕事をしている。恐らく部長は正英の事を厄介な小僧とでも思っているだろうが。
「えーとー、何処から変えればいいんだ、色々ズレてくるな」
「大山さん、無理して中途半端になるくらいなら今から言った方がいいですよ」と、自分のPC画面を見ながら淡々とした口調で俺に話かけてくる正英。
「上が言ったんだからしょうがないだろう。やらなきゃいけないんだよ」
「下からの意見も伝えないと」
「下が何言ったって未来は変わらないよ」
「変わりますよ。でなくても変わるきっかけにはなるかもしれませんし、あ、会議の前に社長いつも喫煙室行くじゃないですか、そこでー」
「正英、俺らは上の期待にどれだけ応えられるかで評価されるんだよ。お前も何年か経てば俺の気持ちが分かる、と思う、はず、うん」
「……会議って何なんですかね」
「……。因みにさ、正英はサイズから選ぶ?」
「柄ですね」
「やっぱそうだよな?」
と、愚痴も交えながら会議開始ギリギリまで作業し、再考案した資料を部長に渡した。
会議には余程の事がなければ自分は参加出来ない。飽くまで部長のプレゼンテーションのサポート役、しかし会議中の部長を待っている時間は気が気じゃない。
部長が会議を終えて戻ってくる。部長の浮かない表情を見たら〝どうでしたか?〟と聞くまでもなかった。
しかし正英はこういう重い空気の中でも「何がダメでした?」と、平然と入って来る。
部長が腕を組みながら「んー、まぁ色々あったけど、ジャンル分けをもっと増やすのとー」と天を仰ぐが俺にとってはそんな事よりもギリギリで修正を掛けられた、柄が先かサイズが先か問題を知りたかった。
「あの、あれは言ってましたか?今日直した柄とサイズの事」
「ん?あぁそれは特に何も」
「え?」
「何も言ってこなかったからあれで良かったんじゃないかな」と目も合わせず流すように話す部長。
……そうじゃないんだよ部長。それだったら元々設定してあった柄選びが先でも良かったかもしれないじゃないか。むしろ柄選びでいっていたら、〝あぁ、そっちの方が良いかもね〟って言われていた可能性だってある。
結局、今日の作業時間は何だったのかと、一番聞きたかった事が分からず終いでやり過ごされた俺は深呼吸をし、怒りを抑えていた。
そして俺の心境が分かっている正英は無言でただ俺を見ていた。
分かっている。お前の言いたい事は無言でも犇々と伝わってくる。しかし上に言いたい事が言えないのが俺だ。今日正英に言った事も自分のどこかでただの言い訳なんじゃないかと、正直思っている。情けないと少しは思うが、仕事には貢献しているつもりだしそれにその分の給料もちゃんと貰っている。納得いかない事があっても我慢すれば面倒臭い話から逃れる。自分はこのスタイルが合っているのだ。
部長から各々へ課題を割り当てられたが、俺はやる気が起きずその日は定時で家へと帰った。
自宅は閑静な住宅街にある小さなマンション。2LDKに真紀とパグの雄太との〝3人暮らし〟だ。
「ただいまぁ」
結婚して5年、いつしか玄関に迎えに来てくれるのは雄太の役目に変わった。
「おう~雄太~飯食ったか~?」
真紀はリビングのソファに座り、アイスを食べながら俺が録画していた【激撮‼地球外生命体スペシャル】を観ていた。
「おかえり~」
「あー、ご飯はー?」
「さっきあげたよ」
「雄太じゃなくて俺だよ」
「あぁ、台所の鍋に入ってるよー」
溜息が出た。もしかしたらカレーかもしれない。今目の前にある鍋の蓋を開けてカレーだったらこの家での食事は3食連続カレーだ。確かに昨日カレーをリクエストしたのは俺だ。しかし量が半端じゃなかった。気を利かせてここで違う物が出てくるとは思えない。しかしひょっとしたら、という事が無きにしも非ず…。
鍋の蓋を開けた。
……カレーだった。
「はっはははっ」とテレビを観て笑っている真紀の声が部屋に響く。
俺は宇宙人や超常現象特集の番組はドキュメント感覚で観ているのだが、真紀は基本的にそういう番組はバラエティ感覚で観ている。この大量のカレーといい、ドキュメント番組をお笑い番組化とされ、聞こえてくる笑い声に苛立ちが募っていく。
鍋を火にかけ、乱雑に収納された冷蔵庫内を眺める。カレーは2日目が美味しいというがこの家で3食連続して食べている身としては味を大きく変えたい。
「チーズかなんかないの?」
「あるよ?雄太のチーズ」
唯でさえプレゼンの事で気分が晴れていない。いつも聞いている真紀の冗談も今日は腹が立ってしょうがない。
「食べるわけないだろそんなの!」
「何よーただの冗談じゃない。プレゼンが上手くいかなかったからって怒らないでよ」
思わず冷蔵庫をあさっている手が止まってしまった。
「は?何で分かるんだよ、そんな事」
「だって今日プレゼンあるって言ってたじゃない」
「だから何で上手くいかなかったって分かるんだよ?」
「だって上手くいかなかったんでしょ?」
「まだ言ってないじゃんそう言う事」
「じゃあ上手くいったの?」
「いってないよ」
「いってないじゃん」
「いってないよ?いってないけど言ってないのにいってないとか言うなよ」
「だって、オーラでわかるもん」
「オーラ?」
普段絶対に使用しない俺好みのワードをこういう時に使うのは真紀の俺に対する攻撃の一種だ。
「それとー、ただいまの言い方とかでわかるもん」
「……そう」
まぁ確かにただいまの言い方は明らかに違った気がする。
真紀は再びアイスを食べながらテレビを観始める。
……そうか。意外とそういう所見ているんだなと、真紀の後頭部を見ながら少し感心したが、それも笑い声で掻き消される。
「ははっははは」
〝明らかに円盤の様な物が映っていますねー、これはUFOですね~~〟
「時速500㎞とか出てんじゃん?ぷっふふ」
「……笑うところじゃないだろ」
温まったカレーを御飯にかけ、ダイニングのテーブルで食べ始める。
明日はカレー食べないからな…、と俺は独り言の様に小声で呟いた。
「なーに?」
「え?」
すっかり〝お笑い番組〟に戻ったかと思ったが真紀の耳はしっかりとこちらへ向かっていた。あぁ、また始まってしまった……。
「……別になにも」
「食べないって、じゃあ残りどうするのよ?」
「…どうするのよって、責任取ってよ」
「責任!?何?責任って?誰の為に作ったと思ってるの?」
「いやまぁ、そうだけどさ、量考えてよ量を」
「あなたが〝沢山〟食べるっていうから!」
「沢山は沢山でも沢山過ぎるって!」
「沢山って言うから沢山作っただけなのに!」
「4,5日分はあるぞ!ずっとカレー食べると思ったのか!?」
〝ワンッ!〟
互いに声を張って口論していると雄太が吠える事が多々ある。雄太がどう思っているか分からないが今回も雄太が仲裁に入った。
「……そうよ」と真紀がトーンを落として答える。
変に真面目なところがあるのも彼女の魅力だが、たまにこういう事が起きてしまう。冷静に思えば嫌がらせでも何でもない、ただのコミュニケーション不足だ。
「……そうか。三日連続はきついかな」
「……わかった、気を付ける」
「ううん、……ありがとう」
真紀とは結婚する前から喧嘩が多い仲だが仲直りは早い。喧嘩する度に何かお互いの思ってる事が確認出来るので喧嘩も一つのコミュニケーションになっている。要は何だかんだ仲が良いのだ。
再びカレーを口に運び始める。
「そういえばお土産届けた?」
スプーンが一瞬止まる。
「ん?ああ」
返事したその声は、自分でも一気に細くなっているのを感じた。
「話したの?」
「うん、まぁ」
「ふーん。何て言ってた?」
「…ゼリーは久々だって、さ」
「ふーん。そう」
何とか誤魔化しカレーを食べ続ける。ふとテレビの音が消え、静かになった空間から強烈な視線を感じ始める。
「……」
真紀がこれでもかと言うぐらいの細い目で俺を見ていた。
「ねぇ、まさかドアノブに引っ掛けてきたとかじゃないわよね?」
「へ?は?はい?」
何故こんなにも分かってしまうんだろうか。真紀がたまに発揮するサイコメトリーな能力がたまに怖い。
「あ、あのさ、隠しカメラでもあるの?」
「だって急にカレー食べるスピードが速くなったじゃない。嘘ついてるでしょ?」
自分が分かりやすい人間なのも悪い。
「あなたは心理学者ですか?」
「ねぇー、もっとお父さんを大事にしてって言ってるでしょ?お父さんしか居ないんだよ?」
「……、わかってるよ」
「墓に布団は着せられずって言うでしょ?」
「勝手に殺すなよ」
「そうじゃなくて、今のうち親孝行しなさいって言ってるの!」
真紀の言っている事は正しい。しかしそれぞれの家庭にはそれぞれの事情があるのも事実だ。
「何年もほったらかしにしといて、何でこっちから歩み寄らないといけないんだよ」
「お義母さんが居ない今、お義父さん一人なのよ?貴方だってもう血が繋がっている人は自分のお父さんしかいないのよ?」
「そんなのわかってるよ。だからお土産持っていっただろ。こっちだってパスは出してるんだよ」
「パスが下手なのよ。あ!じゃあカレーの残りお義父さんにでもあげる?」
「何でだよっ」
「いいじゃない!あ、ちょっと待って、お義
父さん77歳の誕生日近くない?ねぇ何か企画しようよっ」
「いいってもう面倒くさい」
今度は違うスイッチが入ってしまった。俺も親父の話は滅多にしないのでここまで深く話すと真紀の調子は止まらなくなる。
「こんなチャンス、もしかしたら最後かもよ?これでダメだったら私ももう言わないから!ね?」
「……」
「カレーは私届けるから、ね?」
これ以上喧嘩になるのも嫌だし、真紀の〝もう言わない〟という言葉に釣られてか、今回は譲歩する事にした。
「はぁ、もうこっちから歩み寄るのは最後にするからな」
「あ、もしもしお義父さん?」
真紀は既に親父に電話をかけていた。
「おい嘘だろ?」
恐らく俺の葛藤していた表情を見て返答を読み取り、聞くまでもなく行動に移したんだろう。その信じられないスピードは心理学的パワーを超越しているかの様だった。
「サイキッカーかよ……」
恐怖を抱くところもあるのだが、正直なところ、オカルト好きな俺からしたらそういう所もまた真紀の魅力でもある。
「あのね、今日カレー作ったんですけどー、あれ?お義父さん?」
「……」
「あ、いえ、すいません、間違い…ましたー」
電話を切る真紀。
「え?何?このご時世に間違い電話?」
「お義父さん番号変わったのかな?」
「家の電話だろ?」
「でも若い男の人でたよ」
「え?」
まさか知らないうちに引っ越したんだろうか。確かに引っ越しても言ってはこないだろうが、今さら何処へ引っ越すんだ。最後に会ったの母さんの一周忌があった先々月。その間に何かあったのだろうか。
ん?……となると、俺は誰だか知らない他人の家にゼリーを置いてきたという事になる。なんて勿体無い事を…。
「ちょっと番号見せて」
自分の携帯から〝栄一〟の連絡画面を出し、真紀の携帯を照らし合わせたが親父の電話番号に違いなかった。
「あってるよ」
「ねぇそっちでかけてみて」
受話器のマークをタップし、真紀に渡そうとするが携帯を取ろうとしない。
「おい!かかってるって!」
「出て出て出て!若い男だから」
その時、呼び出し音が止まった。
真紀がそこまで言っても俺は瞬間的に気が張った。それでも親父が出るかもしれなし、
電話で話すなんていつ振りだか分からない。
電話は繫がったが向こうからは声は聞こえない。しょうがなくこちらから喋る事にした。
「……あ、もしもし?俺だけど」
「(声)ん、あぁ、どうした、珍しいな」
親父だった。
「(小声)親父だよっ、お前嘘ついたろ?」
「えっ!?してないしてない!」
俺と親父を直接会話させる為に真紀が一芝居したのかと思ったが、意外と嘘が下手なのであんなリアルなリアクションは出来るはずがない。
「えーとー」
しまった、会話する準備をしていなかった。
言葉に詰まっているとすかさず真紀が〝カレーカレー〟と口を動かす。
「あぁ、あーのさ、うちでちょっとカレー作り過ぎちゃってさ、真紀がもし良かったらいるかなって」
「(声)あー、そうか。いや、いらないわ」
「……いらない、あそう」
「(声)……それだけか?」
「あー」
真紀が何やら騒がしくしている。手に持っていた紙には〝誕生日〟と書かれていた。
「はぁ……、えと、もうすぐ誕生日でしょう、喜寿だしもしよかったらなんか、一緒にご飯とかーどうかなって。真紀もそう言ってるん
だけど」
「おい、真紀真紀言うな」
「(声)……そうか、来週か。あー来年じゃだめか?」
「ら、来年?あぁ……そう」
真紀に首を振ると落胆した表情を見せ、また何かを〝カンペ〟に書いている。とりあえず聞くことは聞いた。あとは電話を切るだけだが、一つ確認する事があった。
「じゃー、わかった、それだけ。あ、あとさっき電話したら若い男が出たっていうんだけど、知らな―」
「(声)知らないなぁ」
何故か急に食い気味に返事をされた事が妙に感じた。
「……、あー、そう」
もしかしたらあちらも早く切りたいのかもしれない。しかし真紀のカンペがそうはさせてくれない。
〝足腰は大丈夫なの?身体は!?〟
「……」
しょうがない、最後だと思って俺は付き合う事にした。
「か、身体は、足腰は大丈夫なの?」
「(声)どうした急に。お前こそ大丈夫か?」
あっちも妙に感じている。そりゃそうだ、こんな会話した事がない。こんな気持ち悪い事をして何になるのか。流石に俺も終わりにしようとした、その時だった。
電話越しから〝ガッシャーン!〟と大きな音が聞こえた。
「え?何?何の音?」
「(声)何が」
「何がって今音したじゃんか」
「(声)あ?あぁ、た、棚が壊れた」
「棚が壊れた?」
親父の家の内装は知らないが、なかなかの物が崩れた音がした。そして再び〝ガッシャン!〟と音が響く。
「ちょっと大丈夫?」
「なになになに?」
真紀も俺の言葉を聞いて不安な面持ちになる。
「(声)えーとー、ユ、ユウタが暴れとるんだ」
「ユウタ?ユウタって……?」
思わず寝ている雄太の顔を見た。
「(声)あっ、そうかぁ、お前の所かユウタは」
「何言ってるのいったい」
「(声)あー、実はうちも犬を飼ってな、ユウタって言うんだ」
「はい?」
「(声)とっ、とりあえず今日はもう寝るよ、じゃあ」
通話が切れた。
「……」
「……ねぇ、何が起きたの?何話したの?なんで雄太の話になったの?」
「ちょ、ちょっとまって」
頭の中で一つ一つ整理すると時間がかかりそうだ。とりあえず分かった事を伝えてみる。
「えーとー、犬が騒いでいるらしい…」
「犬?犬飼い始めたの?」
「うん、ユウタって言うらしい…」
「え……うちと一緒じゃん」
「……だな」
「ちょっとまって、え、そんな事ある?二世代揃って同じ名前の犬飼う?普通」
「…ボケたんかなぁ、犬は確か嫌いって聞いた事があるけど」
「え、パクったって事?」
それよりもあの音が気になる。犬だとしたら大型犬でもないとあんな音は出せないし大型犬なんて親父の団地では飼えない。そもそも犬なんて飼えるのか?
「もしかしてパグじゃないよね?パグもパクられてないよね?」
真紀の変なスイッチがまた入ってしまっている。
「いいってパグでも別に!そうじゃなくて色々とおかしいだろって!返答もちょっと変だったし」
「……見に行った方がいいんじゃない?
今週末予定ないでしょ?私も行くから」
「……」
心配というよりも何か胸のざわつきを感じた。
「その時にさ、またご飯誘ってみようよ」
「…まぁ、うん」
「よし、じゃあカレー冷凍しとこっ」
そして2日が経った。
親父の家へ行く日の前夜、真紀が妙な事を言ってきた。
「はい?え、行ったの?」
「雄太の散歩がてら前通っただけよ」
「散歩って、雄太を殺す気か?」
「ちゃんと抱っこしたわよ。そうじゃなくて、お義父さんの影が見えたの」
「影?」
「うん、カーテン越しだけどね。そしたら大きなハット被ってたのよ、シルクハットみたいな」
「はい?家の中でおかしいだろう、それにそんな帽子被る人じゃないし。絶対家間違ってるって」
「えー、ちゃんと2号棟だったよ?ねぇ誕生日プレゼントさ、タキシードとかどう?」
「何でだよ!そんな物着せてどうすんの?マジシャンじゃないんだからさ」
「素敵だと思うけどなぁ」
「いらないって。あっても着ないし、てか隣の家見たんだって」
「じゃー何あげる?」
「え?ご飯に誘うじゃんか」
真紀はポカンと口を開けこちらを見た。
俺にとっては〝食事に誘う〟という前代未聞の振る舞いが既に最大の誕生日プレゼントだったが、真紀には考えられないみたいだ。
「急に色々してもなー」
俺の親子関係に節介を焼く真紀に本当はやめてくれと言えばいいのだが、それは出来ない事情がある。真紀の両親はもう居ないのだ。若いうちに両親を亡くし、親孝行出来なかったという悔いが残っている。なので俺と親父みたいな関係でも居るという事が羨ましく思うみたいだ。
溜息をついた真紀が普段とは違う苛立ちをみせ喋り出す。
「んームズムズするそういうの。いかにも男同士の頑固な羞恥心っていうの?本当にもったいないなって。過去は過去じゃん。お父さんらしい事してこなかったかもしれないけど、それはお母さんとの原因が大きい訳で、宏文とお義父さんとの関係自体には直接問題があるわけじゃないでしょ?」
真紀がここまで言ってきたのは初めてだ。普段ふざけた事ばかり話しているので反応に困ったが突き刺さったというのもあり、反論も無くただ返事をする事しか出来なかった。
「……まぁ、そうだな」
沈黙が暫く続く。
初めて味わうこの空気感にどうしていいかわからない。
そして再び真紀が口を開く。
「それにパグかどうか確かめなきゃいけないし」
「ふざけてんの?」
「うん、ごめん」
真紀も同様だった。
何だか安心した。
翌朝、親父に電話をかけたが留守番電話になった。お昼頃にそちらへ顔を出すという伝言を残し、その時間まで待つ。会議中の部長を待っている時間とはまた違った気ぜわしい時間だ。
「はぁ」
「緊張する?」
「…いや別に」
「ふふ」
真紀は鍋でカレーを温め直していた。タッパーを持って行くより、鍋のまま持って行った方がインパクトもあるし持ってきた感があって〝掴み〟には効果的らしい。掴みというのがよく分からないがそこら辺は任すことにした。
11時半。
自宅を出て車に乗る。助手席で真紀が鍋を抱えながら話しかける。
「ねぇ、朝電話出なかったんでしょ?居なかったどうする?」
「そしたらー、そのままモールでも行くか」
「家出るとしてもどこ行くんだろうね?」
「さぁ知らん。どこか近くの公園にでも散歩だろ」
「あそっか、犬の散歩かもね。じゃあもう帰ってるか」
「……」
「でも思ったんだけどさ、パグだったらちょっと嬉しくない?少しでも私達の事を意識してたって事でしょう?」
「いや怖いよ、俺は。それがあっちからのパスだったらそれこそ下手過ぎだろ」
「まぁそれも含めて親子って感じでいいじゃない~」
「……嬉しくない」
そんな事を話している内に団地に着いた。
「やっぱり此処よ。前に見た影は間違いない」
「……、とりあえず押してみるか」
204号室の扉の前へ行く。
人差し指でインターホンのボタンを触る。
「……」
〝ピンポーン〟
押した。
「居ないか、外出てるな」
「ちょっと早いって、待ちなさいよ」
「……」
10秒ほど待ったが反応は無い。
「よし、居ないな」
すると真紀が手を伸ばし再びボタンを押す。
〝ピンポーン〟
「おい」
「トイレに入ってるかもしれないじゃん?」
「はぁ、あと10秒ね」
時計を見ながらカウントを始める。
「10、9、8、7…」
「お義父さん~!居ます~?」
「おい、大きな声出すな」
〝カチャ〟
と、鍵の音がした。
「え?」
真紀と思わず顔を見合わせる。
扉が少し開いた。
チェーンが掛かったその扉の隙間から少し顔を出したのは、親父だった。
「あ、お義父さん、こんにちは~」
「…ああ」と覇気のない声で返事をする親父と自分も顔を合わせる。
「あー、留守電残したんだけど、聞いた?」
「あぁ、さっきな」
「…そう」
扉がゆっくりと閉まり、チェーンが外れる音がする。
しかしその後、扉が開く様子はない。
「えーとー、これは入って良いって事かしら?」
「俺のパスの下手さが可愛く見えるだろ?」
「……まだ変わらないかな」
「は?」
「いいから開けなさいよっ」
恐る恐る家の中に入る。中は特に変わりのない、至って普通な内装だ。
「お邪魔しますー」
玄関近くの本棚には〝月刊SFミステリー〟や〝UMA特集〟、〝宇宙図鑑〟〝地球の生物〟に広辞苑やその他辞書辞典などの本が沢山並んでいる。
「あ、ねぇ見て見て、この辺あなたにそっくりじゃない?へー凄い。やっぱ親子ね」
「……」
まさか親父も〝そっち系〟が好きだったとは。親に言うのもおかしいが、親近感が湧いてきた。
居間の方へ行くと親父が水を沸かし、お茶の準備をしていた。
「あ、私やります!」
「…そうか」
「あ、その前にこれカレーです。よかったら食べて下さい」
「あぁ、ありがとう。でもわざわざこんな所来んでもいいのに」
「いや~たまには会いたいじゃないですか、ねぇ?宏文?」
真紀のいかにもなパスで何とか俺も喋れた。
「ん?うん、そうだね」
続けて真紀のアイコンタクトが来る。
「あ、そういえば、留守電でも言ったけどー、来週の25日にレストラン予約しようと思うんだけど、たまには、どう」
「……」
あまり表情を変えない親父だが、驚いているのは伝わってくる。
沈黙のままテーブルに着いた後、徐に親父が口を開く。
「……そうだな」
その言葉を聞いて真紀の瞳孔が開くのが見えた。
「決定~!そこ凄い美味しいイタリアンなんですよ~!あ、お茶淹れましょっ」
誘っといて何だが親父の返答に驚いた。そして真紀の喜び様にも驚いた。
真紀が後ろの台所へ火加減を見に行く。俺も目の前にあるテーブルに着く。真紀と1メートル程しか離れていないのに親父と対面している状況ではその距離がとても遠く感じる。
「……」
「……」
真紀の事だ、わざと時間をかけているに違いない。なら俺もお茶を手伝いに行ってやる、と思った時だった。
「ゼリー、ありがとうな」
「え?あぁ、うん。ごめん、会えなくて」
〝ゴホンッ〟と後ろから聞こえる。真紀のその咳払いは〝会えなくてじゃなくて会わなくてだろ?〟と言っていた。
急須と湯飲みをお盆に乗せやってくる真紀がもう一つの〝本題〟に突く。
「あ、そういえばユウタ君、何処にいるんです?」
「…え?」と何故か少しまごついた返事をする。
「あぁ、犬、どうしたの?買ったの?貰ったの?」
「……家の中に、入り込んできてだな」
…まさかの答えだった。
「え!?迷子犬?野良犬!?お義父さんドア開けっ放しにしてたら危ないですよー!」
「てか、ここ犬飼えるの?」
「さぁ、下に住んでる男はネコに餌やっとるぞ」と、俯き加減で喋る親父。
「そ、それはまた違うと思うけど」
「因みにお義父さん…パグです?」
一瞬、〝おいっ〟と突っ込もうとしたが、正直なところ俺もそこは知りたいところだ。素直に答えを待った。
「……そんなに、ユウタが気になるか?」
「え、ええ、まぁ、うちと同じですし。今日も会うの楽しみにしていたので…ねっ宏文?」
「う、うん」
嫌なパスが来たがそう答えるしかなかった。
「……そうか」
〝ゴトッ〟
と、トイレから物音がした。
真紀がすかさず反応する。
「あら?トイレに居るんです?」
「そうだ。そこが落ち着くみたいでな。そんな事より、誕生日を祝ってくれるなんて、珍しいじゃないか。どうした急に」
親父の不自然な逸らし方に疑問を感じながらも誕生日の話になったので流れは戻せなかった。
「え?あぁ、喜寿だし、一緒に食事なんてした事なかったし……って真紀も」
「でも宏文も言ってたんですよ?やっぱりちゃんと家族でお祝いしようって、いい機会ですし…ね!」
「……そうだな」
「良かった~。はいどうぞ~」とお茶を淹れた湯飲みを配る真紀。
真紀も椅子に調子を上げいく。
「ねぇお義父さん、タキシードって持ってます?」
「タキシード?」
「だから要らないって」
「まだ分からないじゃない。あのですね、喜寿のお祝いにタキシードなんてどうかなーって思ったんですけど、そういうの好きじゃないです?」
「そういうのは着た事がないな」
「ほら、着ないって」
「…そっかー帽子に似合うと思ったんだけ
どなー」
「帽子?何の事だ?」
「この前真紀が、〝たまたま〟うちの雄太の散歩してる時にここ通って、で、〝たまたま〟そこの窓見たらしいんだけど、そしたらなんかハット被った姿を…」
「見たのかっ!?」
親父の突然出した大きな声に、俺も真紀も固まってしまった。
「か、影を、ね?でしょ真紀?」
急に表情を変えた親父に真紀も焦り出す。「ほ、ほんと〝たまたま〟なんです!たまには長距離も歩こうかしらなんて言ったりして、そんな時に〝たまたま〟その御姿を。でもあれは隣の家だったかもしれないっていう、決して覗きとかそういう事じゃないん…です。ごめんなさい…」
「……」
親父は黙り込み、何か苦慮している様にも見える。真紀は親父が怒ったと思っているかもしれないが俺にはそう見えなかった。
俺はあえて掘り下げてみた。
「え、帽子、持ってるの?」
「……」
「え、被るの?」
「…おかしいか?」
「……いや、…おかしくないと思うけど…、なぁ真紀!?」
「うん!私は凄い似合うと思いますよ!やっぱりそうだったんですね!ほらー私間違ってなかったじゃない~」
……俺が思っていたイメージと違う。確かに普段接する事のない仲で知らない事の方が多いが、それにしてもだ。どうも信じられない。
「あ、ユウタ君寝てるのかな~」と疑いが晴れた真紀が機嫌よくユウタの居るトイレへと向かう。
その時だった。
「待て!!」
と、親父がまた声を張った。
「な、なんだよ、さっきから大きな声だして」
「いや、ユウタに言ったんだ。大丈夫だユウタ、私の家族だ」
トイレのドアから後ずさりする真紀。
「え、機嫌悪いんですかユウタ君…もしかしてピットブルか何かですか?」
「土佐犬?」
「えー!」
走って戻ってくる真紀。
すると親父がスッと立ち上がり、奥の部屋へと歩いていく。
「ちょ、なになになに今度は!?」と俺は親父の奇妙な行動の連続に恐怖を感じてくる。
すると奥に行った親父が何かを漁りながら喋りかける。
「確認しとくがそっちの雄太は連れてきてないよなー?」
「はい、家で留守番してますけど…」
「おい真紀、親父ボケたと思うか?」
奥の部屋からは新聞紙の音が聞こえる。
「んー、今これから何を持ってくるかに寄るわねぇ…」
姿を見せた親父は手に新聞紙と何か軍手の様な物を持ち、そのままトイレへと入って行った。
「……あ、もしかしてユウタ君を新聞紙で隠して、ここへ連れて来てジャジャーン!パグでした!的な?」
「よくそんなポジティブ思考にもってけるよな?完全にボケちゃってるよ。あぁー嫌だなぁ一緒に住むのは。どこかデイケアかデイサービス的なぁー…」と喋っている時だった。
〝ガチャ〟
静かな音を出してトイレのドアが開らき、真紀とトイレの方へ顔を向ける。
「え…」
「きゃー!」
真紀が思わず抱きついて来る。そして俺もそのまま椅子を引きずり壁にぶつかる。
「えっ?えっ?えっ?」
親父がユウタの〝手を引いて〟出てきた。
「紹介する……ユウタだ」
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