第38話 最後の試練

 運営者が作り上げたな舞台は崩れ去った。


「勝った……のか」


 俺は自分の手を見る。震えが、まだ止まらない。


「はは……勝ったぞ!  あいつの土俵で、あいつが作ったゲームの世界で、俺たちが勝ったんだ!」


 歓喜に浸っていた俺を現実に連れ戻したのは、ラミアの絶叫だった。


「ルーカス、避けろ!」


 人型すら保てなくなった「かつて運営者だった塊」から、最後の憎悪を込めた一筋のコードが伸び、俺の胸を貫いた。


 胸の奥に熱が走り、視界が一瞬、白く染まる。現実世界のラミアの悲痛な声が遠のいていき、次の瞬間には俺の意識は暗闇へと引きずり込まれていた。


「しまった……!」

 

 声を出したつもりなのに、響き方が違う。耳ではなく頭の内側に直接反響するような、そんな声。

 周囲は真っ黒な虚無。その空間に、無数の光の粒が、巨大な時の滝のように流れ落ちていく。その一つひとつが「記録」――セーブデータだと直感した。


 俺はその光を手に取る。指先に触れた瞬間、目の前に画面が開いた。

 最速ルートを選んだ走者としての選択。無駄な戦闘を切り捨て、効率だけを求めた冷たいルート。

 また別の光には、寄り道してイベントを拾った記録。出会った人々の笑顔や、見送った影がよみがえる。


「……この感覚、あの滝と同じだ」


 だが今は、それが「俺自身の手で積み重ねてきた選択」そのものとして迫ってくる。

 ラミアと出会った孤独な魔王城。聖騎士に追われた絶望の日々。深淵で理を超えた力を手に入れた興奮。そして、二人で運営者を追い詰めた、ついさっきまでの戦い。

 すべてが、光の欠片となって流れ続けていた。


 ふと視線を上げると、最上段にひときわ異質な映像が映し出されていた。

 机の前に崩れ落ちた、高校生の少年――ルーカスになる前の、俺だ。


「戻れ、ということか……?」


 コードが頭の奥に囁く。運営者の残響が、甘美な誘惑を仕掛けてきた。

「選べ。お前の望む記録を。ここでなら、好きな物語シナリオをロードできる。ただの高校生に戻ることも、ラミアと出会わない、もっと平和な勇者の道を選び直すこともできる……」


 甘い毒だった。だが、俺は目を閉じ、深く息を吐く。

 これまで見てきた光景が胸を巡る。ラミアが笑った瞬間。怒りに震えた時。俺を信じて手を差し伸べてくれた時。

 そうだ。俺はもう迷わない。選び直す必要なんてない。

 俺が歩んできたこの道は、決してセーブデータなんかじゃない。


「俺は……戻らない。やり直しなんていらない!」


 目を開き、俺は伸ばした手で、ラミアと共に歩んできた、ただ一つの記録を強く掴んだ。

 その瞬間、虚無の世界に亀裂が走り、俺は再び自分の体へと引き戻されていく――だが。


 意識が戻ったと思った瞬間、俺はまだ暗闇の中にいた。

 運営者の残滓が、最後の試練として俺を縛り付けている。


「まだ終わらせない……お前は勇者ルーカス……その役割から、逃れることはできない……」


 視界の先に現れたのは、見慣れた鎧姿の自分――「勇者ルーカス」だった。

 虚ろな目をして剣を構え、俺の前に立ちはだかる。


「……そうか。最後に超えるべきは、自分自身というわけか」


 剣を振りかざし襲いかかる“ルーカス”。その剣筋は、効率だけを求めた、感情のない冷たい一閃。

 俺は剣で受け止める。火花が散り、俺が演じてきた「役割」の記憶が流れ込んできた。数え切れない死とリスポーン。感情を殺し、ただ“クリア”だけを目指した、孤独な俺の姿。


 けれど、もう違う。


「お前がいたから、俺は強くなれた。お前が諦めずに死に続けたから、俺はラミアに出会えたんだ」


 俺は刃を弾き返すのではなく、受け入れ、押し返す。俺の剣には、ラミアを守りたいという確かな熱が宿っていた。


「お前は、俺の一部だ。だけどな、もうお前のやり方だけじゃ進めない!」


 俺はただの“勇者ルーカス”じゃない。

 俺は、俺だ!


「俺の名前は――遊戯創真ゆぎそうまだ!」


 その言葉を放った瞬間、世界が震えた。

 目の前の“ルーカス”は砕け散るのではなく、ふっと微笑むと、光の粒子となって俺の身体に溶け込んでいった。鎧の意匠がわずかに変わり、瞳の奥に、これまで経験してきた全ての記憶が宿る、深い光が灯る。

 胸の奥で、ずっと忘れていた現実の自分、「遊戯創真」としての温かい鼓動が、力強く響き渡った。


 足元が揺らぎ、暗闇が光に溶けていく。

 眩しさに目を細めながら、俺は現実へと帰還した。


 ――目を開くと、そこにはラミアがいた。彼女は傷ついた俺の身体を抱き、最後の力を振り絞って、運営者の残滓から俺を守っていてくれたようだった。

 彼女の瞳が俺を見つめ、わずかに見開かれる。


「……その気配。それが……貴様の本当の姿という訳か」

 彼女の声は驚きに満ちていたが、同時にどこか安堵を帯びていた。

 俺は頷き、しっかりと名を告げる。


「ああ。俺の名前は――遊戯創真。『勇者ルーカス』としての旅も、全部抱えて、俺はお前とここまで来たんだ」


 ラミアの唇がわずかに緩む。これまで見たどんな表情よりも、優しい笑みだった。

 俺自身の名前を彼女に伝えられたことが、なぜか無性に嬉しかった。


「……創真、か」

 彼女はゆっくりと、しかし確かに俺の名を呼んだ。

 胸の奥が温かくなる。名前を呼ばれる、それだけでこんなにも力が湧くなんて。


「行こう、創真。本当の決着のときだ」


 その言葉には、これまで共に積み重ねてきたすべてが込められていた。

 俺を勇者と呼んできた彼女が、初めて“俺自身”として認めてくれたのだ。

 彼女の差し伸べる手を、俺はしっかりと握った。

 もう迷いはない。勇者でも走者でもなく、一人の人間、遊戯創真として。

 そして――ラミアと共に、この物語の結末へと歩み出すのだ。

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