第35話 運営者

 崩壊した聖堂の天井から見えた、夜空の裂け目。

 俺とラミアは、その光に導かれるように、覚悟を決めて足を踏み入れた。


 ――そこは、もはやこの世界の延長線上ではなかった。


 地面は存在せず、光と影の断片が網目のように編まれて、不安定な足場を形成している。目を凝らせば、その一つ一つが文字列や数式のように見えた。

 空間そのものが、この世界を記述するソースコードで構成されているのだ。

 時折、重力が反転し、上下の感覚が曖昧になる。存在そのものが不安定な、世界の舞台裏。


 そして、その中心に――。


 人のようで、人ではない存在が立っていた。

 輪郭は確かに人型だが、その体にはテクスチャが貼られていない。無色透明のポリゴンが、空気を切り裂くように絶えず揺らめいている。

 その手には、一本のペン。まるで神の筆のように、空間へ向かって線を書き記していた。記された途端、遠くの空間で炎が生まれ、氷が形作られ、そして消えていく。


「……余らを嘲るかのような存在だな」


 ラミアが吐き捨てるように言った。だが、その声に震えはない。むしろ、宿敵を前にしたかのような、強い闘志が漲っていた。


 その無貌の存在は、俺たちに気づくと、ゆっくりとペンを動かす手を止めた。


「……よくぞ、ここまで辿り着いた。異物バグたる勇者ルーカス。そして、物語シナリオから逸脱した魔王ラミアよ」


 響く声は人間のものでありながら、どこか冷徹で、抑揚に乏しい。


「私は、この世界を管理する者。あの方がたった一人で紡いだ、この美しき物語シナリオを、汚染から守るのが我が使命だ」


 俺は、深淵で触れた開発者の温かい意志を思い出しながら、目の前の男を真っ直ぐに見据えた。


「あんたが、この世界を歪めている“運営”か」


 俺の言葉に、運営者の輪郭がわずかに揺らいだ。


「歪めている、だと? 違う。私は守っているのだ。あの方が遺した完璧な芸術を。それを、貴様らのようなイレギュラーが、自由だの解釈だのと宣って汚していくのが、許せなかった」


 その声には、初めて激情のようなものが混じっていた。それは、歪んではいるが、確かに開発者に向けられた、狂信的なまでのリスペクトだった。


「戯言を」

 

 ラミアが一歩前に出る。

 

「その“使命”とやらのために、余は魔王という役割を押し付けられ、魂を縛られたのだぞ。失敗作、か。面白いことを言う。余は貴様の言う物語シナリオから解放され、初めて“自分自身”を知った。役割を押し付けられ、歯車として消費されることのどこが完璧だというのだ?」


「黙れ、失敗作」

 

 運営者はラミアの言葉を冷たく切り捨てる。

 

「貴様は、勇者に討たれることで物語シナリオを完成させる、ただの歯車にすぎなかった。だが、貴様は異物と交わり、その役割を放棄した。故に、新しい魔王イリアを用意し、貴様というバグを削除せねばならなくなったのだ」


 その言葉に、俺はもう黙っていられなかった。


「あんたは、何も分かってない……!」

 

 俺は剣を抜き、その切っ先を突きつける。

 

「あんたはあの人の作品を見ていただけだ。俺は、あの人が遺した魂に、直接触れたんだ! あの人が本当に望んでいたのは、完璧な物語シナリオなんかじゃない。俺たちプレイヤーが、自由に自分だけの物語ストーリーを創り出すことだったんだ! あんたが忌み嫌うバグすら、あの人は“新しい遊び”だって、笑って受け入れていたはずだ!」


 深淵で見た、温かい光景が脳裏をよぎる。

 俺の言葉に、運営者の輪郭が、今度は激しく揺らいだ。


「……戯言を! あの方の芸術は完璧だった! バグはただの傷、イレギュラーはただの染みだ! 私は、その傷を修復し、染みを洗い流し、あの方の作品を永遠に完璧な状態で保存する! あの方の傍で、その偉業を見続けた私にできる、唯一の恩返しなのだ!」


 やはり、そうか。

 こいつは開発者の遺志を、あまりに狭く、そして自己本位に解釈してしまった、ただの歪んだ後継者なんだ。


 俺は剣を構え直し、ラミアの隣に立つ。


「だがな、お前の歪んだ自己満足に、俺たちの物語ストーリーを付き合わせるつもりは一切ない。俺たちはもう、お前の思い通りにはならない」


 その言葉に、ラミアはゆっくりと、そして誇らしげに笑った。


「余と、この男が紡ぐ物語ストーリー……それは、貴様ごときには、決して書き換えさせはせぬ」


 長い沈黙の後、運営者は再びペンを掲げた。

 その声には、悲しみにも似た、冷たい決意が宿っていた。


「……理解した。貴様は、あの方の作品を破壊する、最大のバグだ。ならば、私の全てを懸けて、貴様を削除する」


 虚無の光が強まり、空間そのものが震え始める。

 最後の戦いの、嵐の前触れだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る