第33話 虚無の核

 精霊の森を抜けた先には、ぽっかりと空いた巨大な空洞が広がっていた。

 そこは、まるで世界の中心がえぐり取られたかのような、理の外の空間。天も地もなく、上下の感覚すら曖昧になる。


 その空洞の中央に、ただひとつ――淡く、しかし強烈な光を放ちながら、巨大な球体が浮遊していた。


「……あれが、“虚無の核”か」


 ラミアが、畏怖の念を込めて低く呟く。

 それは、俺がこれまで見てきたどんなものとも違う、説明しようのない存在だった。


 無数の四角いポリゴンの断片が絶えず形を変えながら折り重なり、ところどころテクスチャが剥がれて、世界の裏側たる白い無地が剥き出しになっている。

 表面には紫や緑のノイズが走り、空間そのものを構成する無数の文字列が、滝のように流れ落ちては吸い込まれていく。


 あれは、ただのバグの塊じゃない。

 この世界を構成する、全ての情報の源――根源たる混沌ソース・コードそのものだ。


「ルーカス、やめろ! 近づくな!」


 ラミアの制止の声が背中を打つ。だが、俺の足は止まらなかった。

 これは罠でも、敵の仕掛けでもない。

 開発者が遺した最後の切り札。俺を、呼んでいる。そんな確信だけが胸にあった。


 一歩、また一歩と、俺は無意識に核へと歩み寄る。

 俺の存在に反応し、核が脈動する。ノイズの奔流が空洞を満たし、現実の風景がグリッチのように歪んでいった。


 そして、俺の指先が、ついに核の光に触れた。


 その瞬間、俺の意識は肉体から引き剥がされた。

 全身が光の粒子へと分解され、情報の海に飲み込まれる。

 次に目を開いた時、俺は終わりなきコードの滝の中にいた。


// System Check: Entity_Detected.

// Scanning Entity ID...

[WARNING]: UID Not Found in World_Database.

[WARNING]: Anomaly Detected. Entity_Class: UNKNOWN.


// Cross-referencing Soul_Data with [Waterfall_of_Time] Cache...

[LOG]: Accumulated SOUL_EXP detected.

[SOUL_EXP_CACHE]: 8,921,440,210 EXP (Unassigned / From 81,288 recorded "resets")


[SYSTEM_ALERT]: Anomaly "LUCAS" possesses world-logic-violating EXP data.

[ACTION]: Initiate Anomaly_Purge_Protocol.exe... EXECUTING.

 

 脳内に、無機質なシステムメッセージが鳴り響く。

 それは、この聖域を守るための、最後の防衛システム。俺という「異物」を排除するための、プログラムの嵐だった。


 四方八方から、赤いエラーコードの槍が突き刺さる。地面からバグの触手が伸び、俺の体を絡めとる。

 痛みはない。だが、俺という存在そのものが、少しずつ消去されていく感覚。


(くそっ……! 力じゃ、どうにもならない……!)


 剣を振るおうにも、ここには物理法則が存在しない。ラミアもいない。俺一人だ。

 だが、絶望の淵で、俺の脳はRTA走者としての思考を始めていた。


(そうだ……ここはプログラムの世界だ。だったら……!)


 エラーコードの槍が迫る。俺はそれを避けるのではなく、わざと近くの歪んだポリゴンの壁に向かって飛び込んだ。

 ――壁抜けバグ。

 俺の体は壁にめり込み、槍の当たり判定をすり抜ける。


(いける……! ここじゃ、俺のバグ技は、ただの裏技じゃない。世界の理を書き換える力にすらなる!)


 俺は走った。エラーの嵐の中を、無数のバグ技を駆使して突き進む。

 硬直キャンセルで硬直を消し、当たり判定のズレを突いて攻撃を回避する。

 これは、試練なのだ。開発者が、俺にしかクリアできない試練を、ここに用意していたのだ。


 やがて、嵐の中心に、静かに光を放つ中心核カーネルが見えてきた。

 俺は、最後の力を振り絞り、そこへと手を伸ばした――。


[PURGE_FAILED]: Access Denied by Core_Program [ANTI_ADMIN_TOOL].

[OVERRIDE]: System Authority Level 0 (Developer) has protected this entity.

[ACTION]: Integrating Anomaly_Data into World_Logic...

 

 ◇


「ルーカス、貴様……どこから現れた……?」


 ラミアが、驚愕に目を見開いていた。

 彼女の目の前には、虚無の核に飲み込まれて消えたはずの俺と、そして、今まさに虚無の核と融合し、そこから生まれ変わろうとしている「かつての俺」の姿があった。


 ――死んでも、もう終わりじゃない。


 そうだ。これまで俺は、この世界で死ねば全てが終わるのだと理解していた。ゲームのようにリセットもセーブデータのやり直しもない。だからこそ、恐怖が常に背後に張り付いていた。

 けれど、虚無の核は、開発者は、俺に新しい理を与えてくれた。


 積み上げた力は、もう失われない。死んでも、巻き戻らずに次へと繋がるのだと。

 視界の隅に、半透明のウィンドウが浮かび上がった。


<< USER: LUCAS // STATUS UPDATE >>


LEVEL: 12 -> 85

EXP: 1,530 -> 0 / 1,250,000

SOUL_EXP_CACHE: 8,921,440,210 -> 0


NEW_PERK_ACQUIRED: [ TRIAL_AND_ERRORトライアンドエラー ]

PERK_DETAIL: Death is no longer the end. Experience is retained upon respawn.

 

「トライアンドエラー……それこそが、RTAの神髄だ!」


 口から声が迸った。

 理を超えた力。この世界では決して存在しないはずの、“死んでもやり直せる”という在り方。

 俺は今、それを手にしたのだ。


「……まさか、現実でゲームみたいな力を掴むことになるとはな」


 自嘲のような笑みが漏れる。

 だが、その笑みには恐怖も後悔もなかった。胸にあるのはただ一つ、昂揚。


 これで戦える。


 俺が新たな力を手にしたのを見て、ラミアもまた、一歩前に出た。

 彼女の指先が、恐る恐る「虚無の核」へと伸びていく。淡く揺らぐ光が、その白い指先を包み込み――次の瞬間、彼女の体もまた、光の海に飲み込まれた。


「ラミア!」


 だが、俺には分かっていた。これもまた、彼女の試練なのだと。


 ラミアの意識は、彼女自身の魂の深淵へと潜っていた。

 そこには、無数の文字列が、鎖のように彼女を縛り付けていた。


// CHARACTER_DATA: Lamia_Azazel_Baphomet //


ROLE: FINAL_BOSS // SCENARIO_KEY_ENTITY


[CONSTRAINTS]

LEVEL_CAP: 99 (FIXED)

EXP_ACQUISITION: FALSE


[WEAKNESS_MODIFIER]

ATTRIBUTE: HOLY_DAMAGE

MULTIPLIER: x3.0


[DEFEAT_CONDITION]

IF ( enemy.class === 'True_Hero' && event.flag === 'Final_Battle' ) {

SET resistance_all = 0;

SET hp_regen = 0;

}

「……これが、余を縛る呪縛の正体か」


 ラミアは、自分を「魔王」たらしめる、プログラムの鎖を睨みつけた。

 レベルは上がらず、聖属性に弱く、そして最後には必ず勇者に敗れるという宿命。その結末から逃れられないように掛けられた、絶対的な力の枷。


「ふざけるな……!」


 彼女は、その鎖を、自らの意思の力で引きちぎろうとする。

 だが、コードは抵抗し、彼女に絶望的な未来の映像を見せつけた。何度やっても、勇者に討たれる自分の姿。


「――余は、負けぬ!」


 ラミアは叫んだ。


「余は、ルーカスと共に歩むと決めた! こんなくだらぬ筋書きに、余の魂までくれてやるものか!」


 彼女の絶叫と共に、魂の深淵で、彼女自身の意志がコードを書き換えていく。


// 余の魂を縛る鎖……! だが、今の余ならば……!

[USER_LAMIA]: OVERRIDE_COMMAND: "I am NOT a pawn!"

[SYSTEM]: Command Accepted. Rewriting Constraints...


SET LEVEL_CAP: NULL; // Limit broken

SET EXP_ACQUISITION: TRUE; // Growth enabled


// 聖なる光など、もはや余の敵ではない!

DELETE WEAKNESS_MODIFIER: [HOLY_DAMAGE];


// 余の結末を、貴様ごときに決めさせてなるものか!

DELETE DEFEAT_CONDITION; // Destiny overwritten


// SYSTEM_MESSAGE: Character "LAMIA" has been successfully liberated from the SCENARIO.

 

 現実世界で、ラミアの体が後ろにのけぞる。その全身を、無数のコードが血管のように駆け巡り、蠢き、そして消えていった。


「……ああ。これは……なんと、心地よい……!」


 彼女の吐息は震えていた。だが、怯えではない。歓喜だった。


「まるで、力の枷が解けたようだ!」


 その言葉が、俺の胸に響いた。

 物語シナリオに縛られた魔王は、もういない。彼女は今、自らの手で運命を破壊し、真の力を解放したのだ。


「余は……変わった。攻撃も、防御も……全てが、別の次元に踏み込んだようだ」


 ラミアの声には、絶対的な確信があった。

 俺はそんな彼女を見て、心の底から笑った。

 彼女が宿命を越えたこの瞬間、俺たちはただの仲間じゃない、共に運営と戦える、唯一無二の存在になったのだ。


「ルーカス。余はもう、過去の魔王ではない。貴様と、共に行けるのだな」


「ああ。お前となら、どこへでも行ける」


 虚無の核の淡い光が、俺たちを祝福するように揺らめく。

 深淵の静寂の中、俺とラミアは視線を交わした。その瞳に映るのは、不安ではなく、揺るぎない希望だった。


「行こう、ラミア。最後の戦いへ」


「うむ、ルーカス。余の全てを、今こそ貴様に賭けよう」


 二人の決意が、深淵の闇を照らす、始まりの光となった。

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