第31話 時間の滝

 俺とラミアは、銀色の空の下を進み続けていた。

 風が歌う谷を越えた先に広がっていたのは、耳をつんざくような轟音だった。それはまるで、世界そのものが崩れ落ちるかのような、凄まじい音の奔流。


 やがて俺たちの視界を覆ったのは、巨大な滝だった。

 だがそれは、ただの滝ではない。

 流れ落ちる水が下へではなく、逆流して空へと昇っていた。


「……時の流れが、逆行しているのか……?」


 目を疑うような光景に、思わず声が漏れる。

 川底から天へと巻き上がる水流は、まるで時そのものを巻き戻すように、すべてを呑み込んでいた。水しぶきの一つ一つが、過去の映像の断片のようにキラキラと輝いて見える。


 ラミアが、その異様な光景を前に、警戒するように言った。


「……この滝、時が歪んでおる。過去と未来がこの水の中で混じり合っているようだ。不用意に近づくな、ルーカス」


 だが、俺の足はもう止まらなかった。

 過去と向き合う……。この開発者の聖域が、俺に試練を与えているのだと、直感的に理解していた。今の俺たちに必要なのは、まさしくそれだった。


「行くぞ」


 俺は深呼吸を一つすると、決意を固めて滝へと足を踏み入れた。


 ――視界が、揺らぐ。

 いや、揺らぐなどという生易しいものではない。世界が、俺の経験した全てが、一度バラバラになって再構築されるような感覚が全身を貫いた。


 目の前に広がるのは、もう映像ではなかった。

 |だ。


 魔王城でラミアと初めて対峙した時の、あの震え。

 アレンの苦悩に満ちた瞳を見た時の、胸の痛み。

 聖騎士団の剣に弾かれた時の、腕に残る痺れ。

 

 勝利の昂揚も、敗北の悔しさも、全てが寸分違わぬ現実の感覚として、俺の魂に直接刻み込まれていく。


 だが、それは始まりにすぎなかった。


(――痛い、熱い、苦しい、死ぬ、死ぬ、死ぬ!)


 次に押し寄せてきたのは、俺がプレイヤーとして経験してきた、無数の「死」の記憶だった。

 RTAのため、タイムを縮めるため、効率を求めるため……俺が「リセット」の一言で切り捨ててきた、数え切れないほどのルーカスの死。

 

 高所から落下して地面に叩きつけられる衝撃。ドラゴンに焼かれる灼熱。モンスターの牙に肉を食いちぎられる激痛。その全てを、俺は今、この瞬間に、同時に味わっていた。


「ぐああああァァァァッ!」


 あまりの苦痛に、立っていることすらできない。俺は時間の激流の中で膝をつき、絶叫した。

 これが、俺が捨ててきた命の重み。これが、俺が目を逸らし続けてきた、おびただしい数の失敗の記憶。


「そうだ……ゲームでは死ねば全部リセット、経験値もゼロ、レベルもゼロからのやり直しだった。でも……ここにいる俺は違う! この痛みも、この悔しさも、全部俺が経験してきたことだ! 記録じゃない、俺の身体と、俺の心に刻まれた、俺だけの物語ストーリーだ!」


 俺は、その膨大な痛みと敗北の記憶から、逃げるのをやめた。

 全てを、受け入れる。成功も失敗も、生も死も、全てが今の俺を形づくっているのだと。


 そう覚悟を決めた瞬間、熱が込み上げてきた。

 血が沸き立ち、筋肉がきしむ。魔力の流れが増幅し、指先から蒼い光がほとばしった。

 

 ――レベルアップだ。

 

 だけど、ただの数値の上昇じゃない。これは俺という存在そのものが、無数の死を乗り越えて強くなった証。ゲームのシステムを超えて、俺自身の人生の積み重ねが、力に変わったのだ。


「……ルーカス!」


 時間の滝を抜けた先で、俺を待っていたラミアが、どこか苦しげな表情で俺を見つめていた。

 その金色の瞳は、遠い記憶を思い出しているような、深い翳りを帯びている。


「どうしたんだ、ラミア?」


「……あの少女。魔王城にいたイリア。あれは……余が、捨ててきた過去の姿だ」


「……え?」


 思わず耳を疑った。

 イリア――あの謎めいた少女が、ラミアの……幼い頃の姿? 


「そんな設定が……あったのか……。没データか? それとも未実装のクエスト……?」


 俺の脳裏で、ゲーマーとしての思考が暴走する。

 だが、ラミアは静かに、しかし確かな憎しみを込めて言った。


「滝の水に触れ、全てを思い出したのだ。……あの子を玉座に据えた神が恨めしい。余が貴様と物語ストーリーを歩み始めたことで、不良品バグと見なした余を捨て、あの無力な頃の余からもう一度都合のいい魔王を育て直そうとしたのだからな……」


 神が……ラミアを“やり直そう”とした? 

 まるで、俺がゲームでやってきた「リセット」と、同じじゃないか。


 そんな、ふざけた真似を。

 俺は強く拳を握った。

 今まで、神と戦う理由は、自分のためだった。生き延びるため、自由を得るため。


 でも、今は違う。


「ラミア……」


 俺は彼女を見た。

 彼女の存在を、魔王なんて肩書きじゃなく、ひとりの仲間として、ひとりの大切な人として、見つめた。

 俺が救うべき、たった一人の存在として。


「……俺は、神を名乗るあの運営を倒す。だけどそれは、もう自分のためじゃない。ラミア……お前を、お前だけの人生を、取り戻すために戦う」


 言葉にした瞬間、胸の奥に確かな炎が宿った。

 使命感。覚悟。

 それが、先ほど手に入れたばかりの力と結びつき、さらに俺の内側で膨れ上がっていく。


 運営の用意した物語シナリオの檻を破るために。

 そして、ラミアの運命を変えるために。

 俺は、ここで本当の力を得たのだ。

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