第30話 風の唄う谷

 ――風が、歌っている。

 

 そう思ったのは、錯覚なんかじゃなかった。

 俺とラミアが足を踏み入れた谷は、吹き抜ける風がクリスタルのように輝く岩肌や、白銀の葉を持つ草木を震わせ、まるで巨大な楽器のように、ひとつの荘厳な音色を奏でていた。

 低く響く岩穴のうなりはチェロのように、高く澄んだ草葉のささやきはフルートのように。いくつもの音が重なり合い、どこか懐かしく、そして優しい旋律を形づくっている。


「……不思議な場所だな」


 ラミアが立ち止まり、その長い黒髪を風になびかせながら呟いた。

 冷たい銀色の光が空から降り注ぎ、彼女の横顔を際立たせている。その表情は、魔王としての威圧感とは違う、未知の光景を前にした、ただ一人の少女のようだった。


「まるで……世界そのものが、プレイヤーにヒントを出してるみたいだ」


「ふん、相変わらずの遊戯ゲーム脳だな」


 彼女に鼻で笑われ、俺は肩をすくめる。だけど、この世界がゲームの法則で動いていることは確かなのだ。ならば、この風の歌にも必ず意味があるはず。


 谷の中央を進むと、淡い光が苔むした石碑の列を照らしていた。

 古びた石に刻まれた模様は、どう見ても五線譜。しかも、谷に響き渡る風の音と同じ旋律が、光の粒子となって浮かび上がっては消えていく。


「……音合わせ、か」


 俺は思わず声に出していた。

 過去に何度も遊んだ“音ゲーイベント”の感覚が、体に蘇る。


「この石碑の並び、触れると音が鳴るんじゃないか? 風が奏でる旋律と全く同じ音階を、正しい順番で再現すれば、きっと道が開ける……」


「ほう。元プレイヤーの勘、というやつか」


 ラミアが面白そうに言うと、試しに一つの石碑に手をかざす。すると、彼女の言う通り、淡い光と共に音が響いた。透明な鈴の音のように澄んだ音色が、谷に広がる。


「おお、やっぱり!」


 俺は夢中になって石碑の一つ一つを叩き、奏でられる音を聴き比べる。だが、この謎解きは思ったより厄介だった。

 風の歌は、一つの旋律を繰り返しているわけではない。いくつかのパターンが複雑に絡み合い、時折、惑わすような不協和音まで混じってくる。


「くそっ、どのメロディが正解なんだ……!」


 間違った音を重ねると、風が一瞬にして荒れ狂い、砂や葉を巻き上げて、まるで抗議するかのように俺たちに吹き付けた。


「……やるじゃないか、開発者さん。ただの音合わせじゃなくて、ちゃんとパターン認識と記憶力が試されるわけだ」


 だが、こういう地道なトライ&エラーこそ、RTA走者の得意分野だ。

 俺は目を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませる。風が奏でる無数の音の中から、ひときわ強く、そして繰り返される“基軸のメロディ”だけを拾い出す。


 一度、二度、三度……。完璧にメロディを記憶した俺は、目を開くと、ラミアに合図した。


「よし、行くぞ!」


 俺は記憶した旋律を、石碑を叩いて再現していく。一つ、また一つと正しい音を重ねた瞬間、谷全体が共鳴するように優しく震えた。

 

 ――風と、石碑と、俺の記憶が、ひとつに溶け合う。


 石碑がまばゆい光を放ちながら一列に並び、谷の奥を塞いでいた巨大な岩の扉が、ゆっくりと開かれていった。


「……やるではないか」


「まあな。音ゲーは得意なんだ」


 俺は照れ隠しのように笑った。

 ラミアは少し目を細め、じっと俺を見つめている。その視線に気づき、俺の心臓が不意に跳ねた。


「な、なんだよ」


「……不思議なやつだ、貴様は」

 

 彼女は、どこか眩しいものを見るような目で言った。

 

「余の力では、あの岩の扉を破壊することしかできなんだろう。だが貴様は、この世界の理を読み解き、道を開いた。……貴様といると、退屈せぬな」


 その言葉は、谷を吹き抜ける風の音よりも、心地よく響いた。

 彼女がそっと肩を寄せると、ふわりと体温が触れる。俺は思わず息をのんだ。

 彼女の存在は、この新しい世界での唯一の拠り所だ。だけど同時に、かけがえのない“仲間”以上の何かに、変わりつつあるのかもしれない。


「……俺もだよ。ラミアと一緒だから、怖くても進める」


「ふん、正直なやつめ」


 ラミアは照れるでもなく、どこか誇らしげに微笑んだ。

 その横顔は、まるで風に溶け込んだ旋律の一部のように、美しかった。


 谷を抜ける頃には、風の歌が、まるで俺たちの新たな門出を祝福するかのように、優しく響いていた。

 未知の世界。攻略情報ゼロ。だけど、ラミアとなら、どんな謎でも楽しめる。


 俺はそう確信しながら、彼女と並んで谷をあとにした。

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