第12話 消されたNPC

 黒炎竜との遭遇は、俺の心に確かな黒い染みを残した。

 この世界が、俺の知る物語シナリオ通りには進まないかもしれないという、漠然とした不安。


 それでも、俺はまだ心のどこかで信じていた。

 ルートが多少変わろうと、重要なイベントやキャラクターといった根幹の部分は、まだ俺の知識の範疇にあるはずだ、と。


 次の町は「ヘファイステイア」。

 俺の記憶では、ここで初めて本格的な鍛冶屋が登場する。武器の強化と新装備の入手は、このゲームの中盤以降の難所を乗り越えるうえで必須のイベントだ。RTAにおいても、この町に立ち寄るルート構築は絶対的な要になっていた。

 だから、町の門をくぐったときから、俺はある意味で安堵していた。ここさえ無事なら、まだ立て直せる。まだ、俺の知識は通用する、と。


 ……そのはずだった。


 メインストリートを歩きながら、俺は記憶を頼りに拠点へと向かう。あの鍛冶屋は町の中央広場の横、一際大きな建物だ。ゲームでも何度も世話になった、馴染み深い施設。

 だが、そこにあったのは……。


「……墓?」


 俺の口から、ぽつりと乾いた声が漏れた。


 カンカンという槌の音も、燃え盛る炉の熱気もない。鍛冶屋の大きな店構えがあるはずの場所には、ひっそりといくつもの石碑が並んでいた。古びた墓標の前には真新しい花が供えられ、町の人々が日常的に祈りを捧げている形跡がある。


 何かの間違いだ。そう信じたくて、俺は近くを通りかかった住民の女性に声をかけた。


「……すみません、この場所にギルバートさんっていう人がやってる、大きな鍛冶屋はなかったですか?」


 すると、女は怪訝そうに首をかしげた。


「鍛冶屋? いいえ、最初からここは墓地ですよ。何十年も前の大火事で焼けてしまってから……ねえ」


「最初から、だって?」


「ええ。何を言っているんですか、旅のお方」


 背筋に冷たいものが走った。

 最初から死んでいた? そんなわけがない。ここには、鍛冶屋ギルバートという最重要キャラがいるはずなんだ。序盤の装備を揃え、さらに後半では伝説武具の精錬を一手に担うキーパーソン。彼なしに、このゲームは絶対にクリアできない。


 だが、誰に尋ねても返ってくる答えは同じだった。

 

「この町にギルバートなんて職人はいなかった」

「最初からここは墓地だった」

 

 まるで、歴史そのものが根こそぎ書き換えられたかのように。


「……ルーカス。顔色が悪いな」


 隣に立つラミアが、俺の顔を覗き込むようにして低く言った。その声音は重々しく、だが不思議と心を支える力がある。


「この土地、空気が澱んでおる。ただの墓地ではない……何かの強大な力が、無理やり“蓋”をしたような、不自然な気配がする」


「記憶ごと……消されたっていうのか?」


「ふん。余とてそこまでは分からぬ。だが、貴様の言う鍛冶屋が存在した痕跡は確かにある。それを無かったことにするほどの異常な力が働いたことだけは、事実だろうな」


 俺は近くの壁に手をつき、深く息を吐いた。膝が笑い、立っていることすら億劫だった。

 ここまで来て、ようやく決定的に、そして絶望的に理解したのだ。


 ――これは俺が知っている〈ラミアズ・テンペスト〉ではない。


 コピーですらない。何かが、根本から変容してしまっている。


 RTA走者として、俺は「最速でクリアするための知識」を唯一無二の武器にしてきた。展開を予測し、ルートを最適化し、未来を知っているかのように振る舞ってきた。

 けれど今、その足元が崩れ去った。必須キャラが消え、必須イベントごと存在しない。俺がどれほど過去の記録を暗記していようと、この世界では何の意味もなさない。


 胸の奥に広がるのは、焦燥と、底なしの虚無感だ。


「……もう、俺は“正解”をなぞれないのか」


 つぶやいた声は、誰に向けたものでもなかった。だが、ラミアがすぐに答える。


「“正解”だと? くだらぬ。貴様の言うその“正解”とやらは、元より脆い砂上の楼閣だったのではないか?」

 

 彼女の金の瞳が、湖面に浮かぶ月のように揺らめいている。それは厳しい言葉だったが、不思議と胸に響いた。


「うろたえるな。道がないなら進めぬ、と立ち止まるのか? 余はここにいる。貴様の道標が消えたとて、余が貴様の隣にいるという事実は変わらぬぞ」


 ラミアの言葉が、俺の心に灯をともす。

 そうだ、俺はずっとRTA走者として、決められたルートを走ることしか考えてこなかった。だが、そのルートが消えた今、俺に残されているものは……。


 俺は顔を上げ、墓標を見つめた。そこに鍛冶屋ギルバートの名は刻まれていない。ただ「無名の職人たち」とだけ書かれていた。記録すら曖昧にされ、存在が歴史から消去されている。

 だが確かに、ここには誰かがいた。ラミアの言うとおり、建物の基礎石は残っている。完全にゼロからの虚構ではない。何かが意図的に、この世界から消し去られたのだ。


 ならば俺がやるべきことは、ただひとつ。


「……ラミア。行こう。答えを探すために」


「うむ。ようやく貴様の眼の曇りが晴れたな」


 彼女はわずかに口角を上げた。その重厚な気配の中に、どこか誇らしげな響きが混じる。


 そうだ。俺はもう、ただのRTA走者じゃない。

 この変容した世界で、俺自身の物語ストーリーを走らなければならないのだ。


 


 町を去るとき、俺は一度だけ振り返った。墓地の上を風が吹き抜け、供えられた花の花弁が宙に舞う。

 それはまるで、消された鍛冶屋の魂が、どこかで見守っているようだった。


(俺は忘れない。あんたが、あんたたちが、確かにここに存在したことを。たとえこの世界が、その全てを消し去ろうとしても)


 胸にそう誓い、俺は一歩を踏み出した。

 進むべき道は、もう攻略本には載っていない。

 俺とラミアが選ぶ、たった一つの未知のルートだ。

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