第6話 「最速の攻略はボスを無視することです」

 眼下に広がる川幅は果てしなく、ごうごうと音を立てる流れは、まるで大地を食い千切る黒い大蛇のようだった。湿った風が絶え間なく吹き付け、川面から立ち上る冷気が肌を刺す。


 その激流の上にかかるのは、一本の古びた吊り橋。

 何十年もの風雨に晒されたであろう木材と、太い縄で編まれた頼りない足場が、強風にあおられて危険なほどに揺れていた。


「ほう……人間どもはよくもまあ、こんな綱一本で大河を渡ろうとするものだな」


 ラミアが橋のたもとに立ち、黄金の瞳を細める。彼女の長い黒髪が風に激しく舞い、生き物のように荒れ狂う川面を睨みつけていた。


「ああ、しかもここ、本来なら中盤で訪れる場所なんだ。普通のプレイヤーなら、まだ装備もレベルも足りなくて近づきもしない」


「なぜだ?」


「魔物よりも厄介なのがな」

 

 俺は肩をすくめながら答えた。

 

「理由は簡単さ。――ここで悪党……いわゆる盗賊に襲われて、同行している村人が大量に犠牲になるイベントが発生するからだ」


 前の村での出来事が脳裏をよぎる。モンスターに襲われる恐怖。だが、このイベントはそれとは質が違った。

 

「モンスターだけが敵じゃない。この世界には人間でありながら、同じ人間に牙を剥く連中もいる……それをプレイヤーに知らしめるためのイベントなんだ。ここで初めて、対人戦のチュートリアルが入る」


 ただのモンスター討伐ではない。同じ人の形をした敵を斬り伏せなければならないという、後味の悪さをプレイヤーに経験させるための仕掛け。だけど、俺にはそんな予定調和、必要ない。


「じゃあどうする? お前の知識で、その犠牲とやらを回避できるのか? 」


「もちろん。……ルート取りさえ間違えなければ、盗賊はそもそも出現すらない」


 俺は胸を張って、ゲーム内で確立された最適ルートを説明する。

 橋の左端、三枚目の腐った板を踏んでから斜めに五歩進み、次の杭の影に滑り込む。そうすると、見張りに感知されることなく、敵の出現フラグを立てずに渡り切れる。

 

 ――モニターの前で、何百回、いや何千回と試したルート。俺の体には、その動きが染み付いていた。


「ふん、姑息な小技だな」


「姑息? 違うな、これは“最速”のための技術だ」


 ラミアが半眼で俺を見る。けれどその口元には、俺の小賢しさを面白がるような、かすかな笑みが浮かんでいた。

 

 俺は先陣を切って橋に足を踏み入れる。ギシギシと板の軋む音が、風と川の轟音の中でもやけに大きく響いた。足元を見れば、板の隙間から黒い奔流が渦巻いているのが見え、足がすくみそうになる。


 ……だが、盗賊は現れない。


 俺は心の中でガッツポーズを決めた。チャート通り、イベントを完璧にスキップできた。成功だ。

 

 そう思ったその時。

 山を削るかのような地鳴りが響き渡り、橋全体が激しく揺れた。対岸の森で木々がなぎ倒され、土煙が上がる。

 その中からぬっと姿を現したのは、人間よりも遥かに巨大な影だった。


 皮膚はまるで岩のように硬そうで、手にした棍棒はそこらの丸太の数倍はあろうかという太さ。

 不気味な一つ目が見開かれ、俺たちを明確な敵意をもって捉えた。


「……オーガ」


 俺は思わず声を呑んだ。

 本来ならもう少し後のダンジョンで中ボスとして登場する強敵だ。序盤で、しかもこんな開けた場所で対峙すべき相手じゃない。


「愚か者が。余に立ち塞がるとは、命知らずよ!」


 ラミアが即座に手を掲げ、その先端に膨大な魔力を収束させる。紫電が空気を裂き、周囲の気温が急激に上昇した。

 あの一撃を放てば、オーガなど塵も残さず消し飛ばせるだろう。だが――。


「待った待った! ラミア、こいつを倒す必要はない!」

 

 俺は彼女の前に立ち、慌てて叫んだ。


「なに? 敵を目の前にして、退くとでも言うのか、貴様は」


「違う。こいつには、ちゃんと負け筋があるんだ」


 俺はにやりと笑った。RTA走者は、敵を倒すことだけが攻略だとは思わない。利用できるものは、たとえ敵であろうと、ステージギミックであろうと、全て利用する。

 

 ゲームでは、このオーガの攻撃で橋が崩落し、プレイヤーは強制的に下流へ流されるイベントが仕込まれている。

 つまり、この橋は壊せる仕様なのだ。なら逆にこちらから利用すればいい。


「ラミア! 正面からじゃなく、あいつを誘導して橋に乗せるんだ!」


「……ほう。つまり、舞台ごと叩き潰すか」


 ラミアの目が愉快そうに光った。彼女は瞬時に俺の意図を理解し、掌から魔力を霧散させた。

 オーガが巨体に似合わぬ速度で突進し、咆哮と共に棍棒を振り下ろす。ラミアが薄い魔力の壁を展開してそれを受け流し、その隙に俺はわざと橋の中央へと駆け込んだ。


 風が吹き荒れ、足元の板が悲鳴をあげて軋む。視界の端には渦巻く川面の奔流。一歩でも足を踏み外せば、オーガに殴られる前に一巻の終わりだ。


「こっちだ、化け物! 」


 挑発するように剣を振ると、オーガの単眼が俺に釘付けになる。単純な怒声と共に、巨体が橋へとその重い足を踏み入れた。ズシン、と橋全体が大きく沈み込み、支柱の縄が悲鳴を上げるように軋む。


「ラミア! 今だ! 」


「心得た! 」


 俺の合図と共に、ラミアが放った紫の光線が、オーガが踏み込んだ側の橋脚の結び目を正確に焼き切った。

 次の瞬間――。


 ドオォォォンッ! 


 けたたましい破壊音と共に、橋が大きく傾ぎ、耐え切れずに崩れ落ちる。

 バランスを失ったオーガの巨体は、驚愕の声をあげる間もなく、自らの重みで濁流へと飲み込まれていった。怒号が泡と共に消え、川面には巨大な水しぶきだけが残された。


 俺は必死に残った縄にしがみつき、どうにか対岸へ飛び移る。ラミアは悠然と浮遊魔法で渡り切り、俺の隣に降り立った。

 嵐のような川面を眺めながら、俺はぜえぜえと息を整える。


「実はこの橋、物語シナリオ上ではオーガに壊されるギミックなんだ。なら、こっちから先に仕掛けても問題ないってわけさ」


「……ふん。姑息な手ではあるが――」

 

 ラミアは崩れ落ちた橋の残骸を一瞥し、やがて微笑み肩をすくめた。

 

「だが愉快だな。お前の小賢しさと、余の力……思いのほか、噛み合っている」


 その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。小賢しさ、と彼女は言ったが、これこそがRTAの神髄だ。

 敵を真正面から殴り倒すだけが攻略じゃない。地形を読み、ギミックを逆用し、システムの穴を突く。


 俺の頭脳とラミアの圧倒的な火力。この二つが組み合わさった時、この世界のどんな物語シナリオだって、俺たちの手で最高のショーに変わる。

 この高揚感は、まさしく世界記録を更新した瞬間のそれに近かった。

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