夜虹のマネージャー
舞夢宜人
これは、私の楽園か、それとも地獄か。
#### 第一話:優しい仮面
昼下がりの陽光が差し込む大学のカフェテリアは、学生たちの賑やかな声で満ちていた。その一角で、私は友人の沙織に向かって、穏やかな笑みを浮かべていた。
「――だから、彼が本当に自分のことをどう思っているのか、不安になっちゃって。私、どうしたらいいかな、恵先輩」
沙織は、今にも泣き出しそうな瞳で私を見つめている。その不安げな表情を、私はまるで鏡に映った自分を眺めるかのように冷静に受け止めていた。大丈夫、いつも通りよ。完璧な「白鷺恵」を演じるの。
「そっか。不安だったんだね」私はゆっくりと頷き、彼女の言葉を一つひとつ丁寧に受け止めるように相槌を打つ。「でも、彼の行動をよく見てみて。言葉だけじゃなくて、沙織と一緒にいる時の彼の表情や態度。そこにこそ、本当の気持ちが隠れているんじゃないかな」
「表情、ですか……?」
「ええ。例えば、この前のゼミの発表の時、沙織がうまくプレゼンできた時、彼、すごく嬉しそうに笑って、一番に拍手してくれていたでしょう? あれは、ただの友人に向ける顔じゃないと、私は思ったけどな」
私の言葉に、沙織の顔がぱっと明るくなる。不安の霧が晴れたように、その瞳に希望の色が灯った。
「そ、そういえば……! ありがとうございます、恵先輩! なんだか、すごくスッキリしました! やっぱり先輩に相談してよかったです!」
「どういたしまして。いつでも話聞くからね」
心からの感謝を告げる沙織に、私は完璧な「優しいお姉さん」の笑顔で応える。周囲の友人たちも「恵は本当に頼りになるよね」「私たちの女神様だよ」と口々に私を褒め称える。そのすべてを、私は心地よいBGMのように聞き流していた。この穏やかな仮面の下に、どれほど深く、暗い欲望が渦巻いているかなんて、誰も知らない。
友人たちと別れ、一人アパートへの道を歩く。夕暮れの光が私の影を長く伸ばし、まるで本来の姿を暴き出すかのようにアスファルトに焼き付けていた。重い鉄の扉を開け、自室に入った瞬間、私はようやく息をすることができたような解放感を覚えた。カチャリ、と鍵をかける乾いた音が、世界との断絶を告げる合図だった。
部屋は、私の表の顔を体現するかのように、綺麗に整頓されている。けれど、その一角にあるデスク周りだけが、私の聖域であり、秘密の祭壇だった。慣れた手つきでパソコンを起動し、ブラウザを開く。ブックマークに登録された一つのフォルダをクリックすると、そこにはずらりと並んだ文字列。その中の一つを、まるで祈りを捧げるかのようにクリックした。
画面いっぱいに、鮮やかな照明と熱気に満ちたライブハウスの光景が広がる。ヘッドホンを装着すると、轟音ともいえる音楽と、割れんばかりの歓声が鼓膜を揺さぶった。途端に、私の世界から昼間の喧騒は消え失せ、ただこの熱狂だけが支配する。
『L'Arc-en-ciel de Nuit』――夜の虹。それが、私のすべてを捧げる地下アイドルグループの名前。
昼間の穏やかな表情は、もうどこにもない。食い入るように画面を見つめる私の瞳は、欲望の熱を帯びてギラついていた。ステージの上で、誰よりも強く、眩い光を放つ少女。ゆるふわの明るい髪を揺らし、完璧な笑顔でファンを魅了する彼女――姫ノ宮凛音。
「……凛音」
吐息と共に、その名を呟く。ただのファンが抱くような憧れではない。それは、もっと生々しく、どろりとした情欲。彼女のしなやかな肢体を、その白い肌を、この手でめちゃくちゃにしてみたい。あの完璧な笑顔を、私の前だけで崩してみたい。
ライブ映像の中の凛音が、カメラに向かってウインクを一つ送る。その瞬間、私の身体の奥が、ずくりと疼いた。頬が熱を持ち、呼吸が浅くなる。昼間の「完璧な白鷺恵」は、この部屋では存在しない。ここにいるのは、ただ一人の少女に狂信的なまでの欲望を抱く、醜い本性を隠した女。
私は、モニターに映る女神に手を伸ばしながら、誰にも聞かれることのない声で、喘ぐように囁いた。
「……ああ、私の、女神様……」
優しい仮面の下で、私の本当の時間が、今、始まる。
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#### 第二話:ライブハウスの女神
大学での完璧な「白鷺恵」を演じ終えた私は、その足で雑踏に紛れ、目的の街へと向かっていた。今日の講義内容を反芻するでもなく、友人との会話を思い返すでもない。私の思考はただ一点、これから訪れる熱狂の空間へと収斂していく。服装はいつも決まって、黒を基調とした目立たないもの。周囲の喧騒に溶け込みながら、私の心だけが静かな興奮に満たされていた。
目的のライブハウスは、古びたビルの地下にあった。吸い込まれるようにコンクリートの階段を下りていく。ひんやりとした空気が、地上とは違う世界の始まりを告げていた。扉を開けると、むわりとした熱気と、人々の汗の匂い、そしてフロアに重く響く開演前のBGMが一斉に私を襲う。これだ。この非日常への移行が、私の心を昂らせる。
すでにフロアは、開演を待ちわびるファンたちの熱気で満ちている。色とりどりのグループTシャツを身に纏い、首から推しメンのタオルを下げた彼らは、仲間同士で楽しげに言葉を交わしていた。私はその誰とも視線を合わせることなく、するりと人混みを抜け、いつもの定位置であるフロア後方の壁際へと身を寄せた。ここからなら、ステージ全体を、そして何よりも「彼女」の全てを、誰にも邪魔されずに見ることができる。
やがて、ふっと客電が落ち、空間が漆黒の闇に包まれる。一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声が爆発した。地鳴りのようなSEがスピーカーから鳴り響き、ステージが閃光に照らされる。スモークの中から現れた五人のシルエットに、フロアのボルテージは最高潮に達した。
一斉に、色とりどりのペンライトが点灯し、幻想的な光の海が生まれる。ファンたちは息の合ったコールを叫び、一心不乱に腕を振っていた。だが、私はその光の海に加わることはない。ペンライトなんて、視界の邪魔になるだけ。私の目は、ただ一人の少女にだけ注がれていた。
姫ノ宮凛音。
彼女がセンターに立ち、マイクを握った瞬間、ライブハウスの空気が変わる。ただそこにいるだけで、全てを支配する圧倒的な存在感。一曲目が始まると、凛音の歌声が私の鼓膜を優しく、しかし確実に震わせた。伸びやかで、どこか切なさを秘めたその声。激しいダンスの中でも一切ぶれることのない、完璧なパフォーマンス。
私の視界は、自然と凛音だけに吸い寄せられていく。他のメンバーの動きも、ファンの熱狂も、次第に背景となって溶けていく。しなやかに伸びる手足、音楽に合わせて揺れる明るい髪、そして、時折見せる悩ましげな表情。額に浮かんだ汗の一粒さえ、ステージライトを反射して宝石のように輝いて見えた。
彼女はアイドルだ。けれど、私にとって、彼女はそれ以上の存在だった。崇拝すべき、信仰の対象。この薄暗い地下の神殿で、信者たちに祝福を与える、唯一無二の女神。
曲の合間のMCで、凛音は愛らしい笑顔を振りまき、ファンからの声援に応えている。その完璧なアイドルとしての振る舞いを目にするたび、私の胸は締め付けられるような陶酔感に満たされる。あの笑顔を独り占めにしたい。あの声を、私だけのために聞きたい。どす黒い独占欲が、信仰心という清らかな衣を纏って、心の奥底で燃え盛っていた。
ふと、凛音が客席に視線を送った。何百という光が揺れる中で、一瞬だけ、彼女の瞳がまっすぐに私を捉えたような気がした。
心臓が、大きく跳ねる。
もちろん、ただの勘違いだろう。こんな薄暗い後方から、私のことなど見えるはずがない。それでも、その一瞬の錯覚は、乾ききった私の心に注がれた聖水のように、じわりと染み渡っていった。
ああ、やはりあなたは、私の女神だ。
ライブの終演まで、私は身じろぎもせず、祈りを捧げるようにステージを見つめ続けた。周囲の熱狂が嘘のように、私の世界は静寂と、凛音への想いだけで満たされていた。そして、この特別な時間の後には、さらなる祝福が待っていることを、私は知っていた。
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#### 第三話:推しとの距離
ライブの熱狂が冷めやらぬまま、フロアの一角で特典会、通称チェキ会の準備が始まった。スタッフが慌ただしく長机を並べ、メンバーたちがステージ衣装のまま現れると、ファンたちは待ってましたとばかりにそれぞれの推しの列へと殺到する。その喧騒を、私は少し離れた壁際から、まるで他人事のように眺めていた。
誰もが少しでも早く推しと話したいと競うように列を作る中、私はゆっくりと息を整え、姫ノ宮凛音の列の最後尾へと静かに並んだ。一番乗りになりたいわけじゃない。むしろ、逆。この待ち時間こそが、これから訪れる神との謁見に向けた、心を整えるための重要な儀式なのだ。それに、こうしていれば、前のファンと楽しげに話す彼女の姿を、少しでも長く眺めていられる。
列は少しずつ、しかし確実に進んでいく。前のファンが凛音の前に立ち、満面の笑みでピースサインをしてチェキを撮っている。凛音は一人ひとりのファンに、あの完璧な笑顔を惜しげもなく振りまいていた。その光景を眺めながら、私の心臓は嫌というほど大きく脈打ち始める。何を話そうか。いつも来ています、と伝えるべきか。今日のライブの感想は? 用意していたはずの言葉が、脳内で浮かんでは消えていく。
自分の番が近づくにつれて、手のひらにじっとりと汗が滲むのを感じる。チェキ券を握る指先が、微かに震えていた。うるさい。自分の心臓の音が、周りの喧騒を突き抜けて耳に届く。ただ、憧れの女の子と数分話すだけ。そう頭では分かっているのに、身体は正直に、極度の緊張を訴えていた。
「――お次の方、どうぞー」
無情にも、スタッフの声が私を呼んだ。鉛のように重い足を引きずるようにして、一歩、前へ出る。目の前に、姫ノ宮凛音がいる。ステージの上から見るのとは違う。照明に照らされているわけでもない、生身の彼女が。至近距離で見る彼女は、非現実的なまでに美しかった。陶器のように滑らかな肌、長いまつ毛に縁取られた大きな瞳、艶やかな唇。その全てが、私の思考を停止させるには十分すぎた。
「こんにちは」
何か言わなければ。その一心で絞り出した声は、自分でも情けないほどにか細く、震えていた。凛音は、私のそんな様子を面白がるかのように、くすりと小さく笑みをこぼした。そして、彼女の唇がゆっくりと開かれる。
「あ、恵ちゃん。今日も来てくれたんだね、ありがとう」
時が、止まった。
今、彼女は、何と? めぐみちゃん、と。私の名前を、呼んだ?
混乱する私の頭の中を無視して、凛音は話を続ける。
「いつも後ろの方で、静かに見ててくれるから。すぐに分かったよ」
見られていた。認知、されていた。その事実が、雷のように私を撃ち抜く。それは、ファンとして最高の喜びであるはずなのに、同時に、心の奥底に隠していた醜い部分までも見透かされているような、背徳的な恐怖を伴っていた。
「さ、撮ろっか。どんなポーズがいい?」
凛音に促されるまま、私はほとんど無意識に「お、おまかせで……」と答える。凛音は「じゃあ、これで」と言って、私の隣にぴたりと寄り添い、二人でハートマークを作るポーズを取った。シャッターが切られる直前、彼女の肩が、私の腕にふわりと触れる。その柔らかさと温もりに、全身の血が沸騰するかのような熱を感じた。
パシャッ、とフラッシュが焚かれる。
「はい、チェキね」スタッフから手渡された一枚の写真には、緊張で顔を引きつらせた私と、完璧な笑顔を浮かべる凛音が写っていた。
「あの……なんで、私の名前……」
「え? だって、恵ちゃんだから」
凛音は悪戯っぽく笑い、それ以上は何も言わなかった。剥がしのスタッフに肩を叩かれ、私は夢見心地のままその場を離れる。
手の中に残るチェキの、まだ熱を持った感触だけが、今の出来事が現実だったと告げていた。フロアの喧騒が、遠くに聞こえる。
凛音の最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。「また会いに来てね、恵ちゃん」。それは、ただのファンサービスではなかった。私だけに向けられた、甘く、そして抗いがたい呪いのように、心に深く刻みつけられた。
この日を境に、私と彼女の距離は、もう元には戻れないほど、縮まってしまったのだ。
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#### 第四話:秘密の裏アカウント
アパートの自室に戻っても、私の興奮は一向に冷める気配がなかった。ドアに鍵をかけ、外界から完全に遮断された自分だけの空間で、私は何度も深く、甘い溜息をつく。手のひらに残る、あのチェキの感触。耳の奥で繰り返される、私の名前を呼ぶ凛音の声。そのすべてが、現実の出来事だったとは到底信じられなかった。
机の上に、今日手に入れたばかりの宝物をそっと置く。写真の中で、完璧な笑顔を浮かべる凛音と、緊張で顔が引きつった私が並んでいる。指先で、写真の中の凛音の頬をそっと撫でた。それだけで、あの時触れた肩の柔らかさが蘇り、身体の奥が疼くような感覚に襲われる。
ダメだ、足りない。このままでは、膨れ上がった感情が内側から私を破壊してしまう。このどうしようもない熱を、どこかに吐き出さなければ。
衝動に突き動かされるように、私はパソコンの電源を入れた。慣れた手つきでブラウザを開き、ブックマークの奥深くに隠した、秘密の場所へとアクセスする。黒い背景に、白い鳥のアイコン。私が普段使っている、誰にでも見せられる清潔なアカウントとは似ても似つかない、どす黒い欲望の掃き溜め。
アカウント名は、『女神の奴隷』。アイコンは、ライブ中に撮影が許可された際に撮った、凛音の美しい後ろ姿の写真だ。誰にもフォローされず、誰のこともフォローしない。ここは、完璧な「白鷺恵」という仮面を脱ぎ捨て、私の本性を唯一解放できる場所だった。
ログインすると、タイムラインにはこれまでの私の歪んだ愛の記録が、おびただしい数、並んでいた。キーボードに指を置き、カタカタと乾いた音を立てて、今日の出来事を打ち込み始める。
『女神に、名前を呼ばれた』
最初は、ただそれだけを打ち込んだ。事実を反芻するだけで、胸がいっぱいになる。
『今日も来てくれたんだね、だって。私のこと、見ててくれたんだ。その他大勢のファンじゃなくて、「私」として認識してくれてたんだ』
書いているうちに、あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。凛音の瞳、悪戯っぽい笑み、そして、私の腕に触れた肩の感触。
『ポーズをとるとき、肩が触れた。衣装越しの肌は、すごく柔らかくて、温かかった。あの薄い布の下にある、本当の肌に触れたい。あの白い肌を、私の舌でなぞったら、どんな味がするんだろう』
一度溢れ出した欲望は、もう止まらなかった。タイピングの速度が上がる。脳内に浮かぶ妄想を、そのまま言葉にして画面に叩きつけていく。
『凛音様のあの唇、ほんのりピンク色で、すごく艶やかだった。あの唇で、私の名前だけを呼んでほしい。ううん、それだけじゃ足りない。私の身体の、いろんな場所を、あの唇で塞いでほしい』
妄想は、もはや凛音一人に留まらなかった。ステージの上で汗を光らせていた他のメンバーたちの姿が、次々に脳裏をよぎる。ほんわかとした笑顔でファンを癒す心音や、無邪気な笑顔を振りまく柚の姿が。彼女たちの、まだ少女のあどけなさを残した身体を、私が暴いてみたい。あの清楚な仮面を剥がし、私の前でだけ、淫らな声を上げさせたい。
『L'Arc-en-ciel de Nuitは、私の女神たち。全員、私のものになればいいのに。あのレッスン室で、私が彼女たち全員をめちゃくちゃにしてあげるんだ……』
そこまで打ち込んだところで、私ははっと我に返った。画面に並んだ、あまりにもおぞましく、倒錯した言葉の羅列。これが、私の本性。昼間、友人たちの前で浮かべているあの穏やかな笑顔の下には、こんなにも醜い欲望が渦巻いている。
全身から力が抜け、私は椅子に深くもたれかかった。一種の虚脱感。しかし、心は満たされるどころか、さらに激しい渇望に苛まれていた。妄想だけでは、もう足りない。
「……いつか、本当に……」
無意識に、そんな言葉が漏れた。投稿ボタンをクリックする。私の欲望は、デジタルの海にまた一つ、消えない染みとして刻まれた。
モニターの青白い光に照らされた私の顔は、もはや完璧な優等生、白鷺恵の面影をどこにも残してはいなかった。この秘密のアカウントが、やがて自分の首を、そして運命を絞め上げる罠になることなど、この時の私は知る由もなかった。
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#### 第五話:甘い誘い
あの日以来、私の日常は、仄かな熱を帯びていた。大学での完璧な「白鷺恵」を演じる時間は、これから訪れる夜のための退屈な序章に過ぎず、ライブハウスの暗闇だけが、私の心を真に安らげる場所となっていた。凛音が私を「恵ちゃん」と認識している。その事実が、まるで上質な麻薬のように、私の思考を痺れさせ、万能感にも似た自信を与えていた。
数週間後、いつもと同じライブハウス。ステージ上の女神に祈りを捧げた後、私は以前のような過度な緊張を覚えることなく、凛音のチェキ列に並んでいた。もはや最後尾に並ぶ必要はない。私は彼女に待たれている存在なのだから。
案の定、私の姿を認めると、凛音は花が綻ぶような笑顔を見せた。
「恵ちゃん、待ってたよ。今日のライブ、どうだった?」
「すごく、素敵でした。特に新曲のダンス、キレがあって……」
周囲のファンたちが、羨望と少しばかりの嫉妬が混じった視線をこちらへ向けているのが分かる。その視線が、私の優越感を心地よく刺激した。私が、特別。この中で、私だけが、凛音様にとっての特別なファンなのだ。
「あ、そうだ。みんな、ちょっといい?」
凛音はそう言うと、隣の列でファン対応をしていた他のメンバーに声をかけた。ほんわかとした雰囲気の花園心音と、小動物のように愛らしい星宮柚が、不思議そうな顔でこちらを向く。
「この子、恵ちゃん。いつも来てくれる、私の大事なファンなの。二人も、仲良くしてあげて?」
「は、初めまして……白鷺、恵です」
突然のことに戸惑いながらも自己紹介をすると、心音は「わぁ、凛音ちゃんがいつも話してる……! よろしくお願いします!」と柔らかく微笑み、柚も「よろしくね、恵ちゃん!」と人懐っこく手を振ってくれた。憧れのアイドルたちに囲まれ、名前を呼ばれる。それは、私の裏アカウントで幾度となく繰り広げた、甘美な妄想そのものだった。
夢のような時間はあっという間に過ぎ、再び凛音と二人きりになる。ポーズを取ってチェキを撮り終え、いつものように剥がしのスタッフが私の肩に手をかけようとした、その瞬間だった。
凛音が、すっと私の腕を掴んで引き留めた。そして、悪戯っぽく唇に人差し指を当てると、その身体を私の耳元にぐっと寄せてきた。甘い香水の匂いが、私の理性を麻痺させる。
「――ねえ、恵ちゃん」
吐息混じりの、熱い囁き。
「この後、もし時間があったら……私たちの楽屋に、遊びに来ない?」
その言葉は、甘く熟した果実の毒のように、私の鼓膜から脳へとじわりと染み込んでいった。楽屋。それは、ファンが決して足を踏み入れることのできない、神聖な領域。聖域。
一瞬、思考が停止する。喜びと、恐怖。期待と、戸惑い。相反する感情が渦を巻き、言葉を失った私を、凛音は楽しそうに見つめていた。その瞳は、全てを見透かしているかのようだ。私が、この誘いを断れるはずがないことを、最初から知っていたかのように。
「大丈夫。私が、いるから」
凛音は、私の葛藤に終止符を打つように、そう言ってにっこりと微笑んだ。その一言は、悪魔の囁きであり、女神の福音でもあった。抗う術など、もはや残されていない。
私は、まるで金縛りにあったかのように硬直したまま、こくりと、小さく頷くことしかできなかった。
その答えに満足したように、凛音は私の腕をそっと離した。「じゃあ、特典会が終わったら、スタッフ入口のところで待っててね」。そう言い残して、彼女は一瞬だけ私にウインクをすると、何事もなかったかのように次のファンの対応に戻っていった。
私は、呆然とその場に立ち尽くす。これから自分が踏み込もうとしているのは、一体どんな世界なのだろう。期待と不安に心臓が張り裂けそうになりながらも、一つの確信だけがあった。
もう、後戻りはできない。私は自ら、光の当たる場所から、甘く暗い舞台裏へと、その一歩を踏み出そうとしていた。
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#### 第六話:裏側への入り口
ファンたちが最後の余韻を惜しむように会場を去り、あれほど熱気に満ちていたフロアが静寂を取り戻していく。私は、凛音に言われた通り、冷たい壁に背を預け、スタッフ専用入口の前で息を潜めていた。本当に来てくれるのだろうか。あれは、ただの気まぐれだったのではないか。期待と不安が入り混じり、落ち着かない心地で床の一点を見つめていると、不意にドアが内側から開いた。
「おまたせ、恵ちゃん」
そこに立っていたのは、ステージ衣装からラフな私服に着替えた凛音だった。その姿は、先ほどまでとは違う生身の少女の魅力を放っており、私の心臓を不規則に高鳴らせる。彼女は私に向かって悪戯っぽく微笑むと、私の手首を軽やかに掴んだ。「さ、こっちだよ」
『関係者以外立入禁止』――その無機質なプレートが掲げられた扉の向こう側へ、私は凛音に導かれるまま、足を踏み入れた。
そこは、華やかなステージとは似ても似つかない、雑然とした世界だった。薄暗いコンクリートの廊下には、音響機材や照明器具が所狭しと置かれ、足元には無数のケーブルが蛇のように這っている。壁には手書きのセットリストや、舞台進行の指示が書かれた紙が無造作に貼られていた。時折すれ違うスタッフたちは、私たちを一瞥すると、凛音に軽く会釈をし、私の存在を特に気にするでもなく通り過ぎていく。凛音の連れだから、誰も私を咎めない。その事実が、禁断の領域に侵入しているという背徳感を、甘い優越感へと変えていった。
いくつかの角を曲がり、一番奥まった場所にある一つのドアの前で凛音は立ち止まった。『L'Arc-en-ciel de Nuit 様』と書かれたプレート。ここが、彼女たちの聖域。ごくり、と喉が鳴る。
「ただいまー」
凛音が軽い口調でドアを開けると、中から弾けるような明るい声が一斉に私を迎えた。
「あ、凛音おそーい!」「恵ちゃん、いらっしゃーい!」
そこは、まさに女の子の部屋、そのものだった。脱ぎ散らかされた衣装、テーブルに広げられたメイク道具、飲みかけのペットボトルやお菓子の袋。鏡の前には、メンバーたちの私物がごちゃごちゃと置かれている。ステージ上の完璧な姿からは想像もつかない、その生々しいプライベートな空間に、私は息を呑んだ。そして、化粧品と香水、そしてメンバーたちの汗が混じり合った、甘く濃密な香りが私の肺を満たす。
「さ、座って座って!」と柚に腕を引かれ、私はふかふかのソファに腰を下ろした。メンバーたちは私を囲むように座り、「大学では何勉強してるの?」「彼氏いるのー?」と矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。そのあまりに気さくで、無防備な歓迎に、私の身体を縛り付けていた緊張の糸は、少しずつ解けていった。
ひとしきり話が盛り上がったところで、不意に凛音が立ち上がり、部屋の隅にあるハンガーラックへと向かった。そして、数ある衣装の中から、一枚のきらびやかな服を手に取る。それは、彼女たちがステージで着ているものとよく似たデザインだが、淡いブルーを基調とした、見たことのない衣装だった。
「ねえ、これ」
凛音は、その衣装を手に私の前に立つと、悪戯な笑みを浮かべた。
「実は試作で作った衣装なんだけど、サイズが合わなくて誰も着てないんだ。でも、恵ちゃんならスタイルいいし、絶対似合うと思うんだよね」
そう言うと、彼女は衣装を私の胸元にふわりと当てた。ひんやりとした生地の感触が、薄いシャツ越しに伝わってくる。
「よかったら……着てみない?」
突然の、あまりにも甘い提案。それは、ただのファンが受けるには過分すぎる誘惑だった。私の返事を待たずに、凛音の瞳の奥が、何かを期待するように妖しくきらめいた。
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#### 第七話:変態願望と着替え
私の手の中で、淡いブルーの生地がきらきらと輝いている。それは、私が立つことを許されるはずのない、ステージという世界の象徴そのものだった。ただのファンである私が、これを身に纏うなど、許されるはずがない。それは神への冒涜にも等しい行為だ。
「ど、どうしよう……私なんかが、こんな……」
戸惑う私に、他のメンバーたちが「いいじゃんいいじゃん!」「恵ちゃんの衣装姿、見たーい!」と無邪気にはやし立てる。その純粋な好奇心の前に、私の固い決意は脆くも崩れ去っていく。
「じゃあ、ちょっと着替えてくるね」凛音はそう言うと、私の背中を優しく押し、楽屋の隅にあるカーテンで仕切られた、簡素な試着スペースへと促した。「私たちはちょっと外で待ってよっか」という心音の言葉で、メンバーたちはぞろぞろと楽屋から出ていく。
ぱたん、とドアの閉まる音がして、試着スペースには私と凛音、二人きりが残された。静寂が、急に重くのしかかってくる。
「さあ、早く脱いで」
凛音は、こともなげにそう言った。私は言われるがまま、おずおずと着ていたブラウスのボタンに手をかける。凛音の視線が、私の指先の一挙手一投足を追っているのを感じて、肌が粟立った。ブラウスを脱ぎ、スカートのホックを外す。下着姿になった私を、凛音は品定めするような目で、頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと眺めた。そのねっとりとした視線に、羞恥心で身体が燃えるように熱くなる。
「……手伝ってあげる」
凛音が、囁くような声で言った。そして、私が返事をするよりも早く、その冷たい指先が私の背中に触れた。びくり、と身体が跳ねる。彼女は、ブラジャーのホックを外す手伝いをしてくれるのだと、そう思った。けれど、彼女の指はホックを通り過ぎ、まるで私の背骨の数を一つひとつ確かめるかのように、ゆっくりと、上から下へと滑り落ちていった。
「ひ……っ」
息を呑む私に構うことなく、彼女の指はさらに腰のラインをなぞり、ショーツのゴムに沿って、その動きを止めた。これは、ただの「手伝い」ではない。私の裏アカウントで描いていた、あの倒錯した妄想。憧れのアイドルに、身体を好き勝手に弄ばれたいという、私の醜い変態願望。それが今、現実のものになろうとしていた。
「恵ちゃん、身体、すごく熱いね」
耳元で囁かれる言葉が、甘い毒のように思考を溶かす。凛音は私の前に回り込むと、今度はその手のひらで、私のお腹をそっと撫でた。指先が、おへその周りをくすぐるように円を描く。
「ここ、すごいドキドキしてる」
やめて。そう言わなければならないのに、声が出ない。それどころか、私の身体は正直に、その官能的な愛撫に反応してしまっていた。背筋がぞくぞくと震え、脚の間にある秘められた場所が、じわりと熱を帯びていくのが分かる。羞恥と、背徳的な快感。その二つが入り混じり、私の理性はぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
凛音は、私のそんな反応を全て見透かしたように、満足げに微笑んだ。そして、ようやく私のブラジャーのホックに手をかけると、それをぷつり、と解いた。解放された胸の膨らみが、空気に晒される。
「さ、これ着てみて」
凛音は、まるで何事もなかったかのように、手にした衣装を私の身体に当てがった。その瞳は、先ほどまでの妖しい光を消し、ただ純粋に、着せ替え人形を愛でる少女のような輝きを宿している。
私は、されるがままに衣装に袖を通し、背中のファスナーを閉めてもらった。息が詰まるほどの濃密な時間が終わった後には、ただ呆然とした感覚だけが残っていた。私の秘密の願望は、確かに今、この場所で現実のものとなったのだ。
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#### 第八話:もう一つの顔
ファスナーが引き上げられる最後の音を聞き終えても、私はしばらく動くことができなかった。先ほどの、凛音の指の生々しい感触が、まだ背中にこびりついているようだった。肌に直接触れる、ひんやりとして滑らかな衣装の生地が、これが夢ではないのだと、絶えず私に語りかけてくる。
「ほら、見てみて」
凛音は私の肩にそっと手を置き、私を鏡の前へと導いた。恐る恐る、伏せていた顔を上げる。そして、そこに映った姿を見て、私は息を呑んだ。
そこにいたのは、いつも大学で「優しいお姉さん」の仮面を被っている、地味で落ち着いた白鷺恵ではなかった。淡いブルーのフリルが幾重にも重なったスカート、胸元を大胆に飾り立てるリボン、そして身体のラインをくっきりと浮かび上がらせるタイトなシルエット。それは、紛れもなくアイドルとしての「私」だった。普段は一つにまとめているだけの黒髪も、今は下ろしているせいで艶めかしく見え、興奮で上気した頬と潤んだ瞳が、妙な色気を醸し出している。
「……すごい」
思わず、そんな言葉が漏れた。鏡の中の女は、私が心の奥底でずっと成りたかった、もう一人の自分の姿だった。
「でしょ? やっぱり、すごく似合ってる」凛音は満足げに頷くと、私の背後から腰に腕を回し、鏡の中の私に囁きかけた。「まるで、L'Arc-en-ciel de Nuitの6人目のメンバーみたい」
その言葉は、甘い蜜のように私の心を満たしていく。凛音はするりとスマートフォンを取り出すと、アプリを起動し、カメラをこちらに向けた。
「記念に撮ろ?」
彼女は私の頬に、自分の頬をぴたりと寄せた。近すぎる距離に心臓が跳ね上がる。ふわりと香る甘い匂いと、伝わってくる柔らかな肌の感触。カシャッ、という軽いシャッター音と共に、私たちの姿が永遠に切り取られた。画面の中では、完璧なアイドルスマイルの凛音と、夢見心地で顔を赤らめる私が、まるで本当のメンバーのように寄り添っていた。
「うん、いい感じ」
凛音は撮った写真を確認すると、にやりと意味深な笑みを浮かべた。そして、スマートフォンの画面を消すと、私の目を見て言った。
「ねえ、恵ちゃん。もっと面白いもの、見せてあげる」
その声のトーンは、先ほどまでの楽しげなものとは少し違っていた。何かを企むような、それでいて抗いがたい響きを持っている。彼女は私の手を取ると、有無を言わさず楽屋の外へと連れ出した。
私たちは、先ほど通ってきた廊下とは別の、さらに奥へと続く無機質な通路を歩いていく。やがて、一つのエレベーターの前で凛音は足を止めた。下向きの矢印ボタンが、鈍い光を放っている。
ゴウン、という重い音を立ててエレベーターが到着し、その扉が静かに開いた。暗く、冷たい空気が中から流れ出してくる。凛音は、私に乗り込むよう目で促した。
エレベーターに足を踏み入れる直前、凛音は握っていた私の手に、きゅっと力を込めた。私が驚いて彼女の顔を見ると、その唇は、妖艶な三日月の形に歪んでいた。それは、これまで私が見たどんな笑顔よりも、美しく、そして底知れぬほど、恐ろしい微笑みだった。
吸い込まれるように、私たちは地下へと続く箱の中へと、身を投じた。
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#### 第九話:地獄の花園
エレベーターが地下階に到着すると、重たい扉がゆっくりと開いた。ひやりとした、黴と消毒液が混じったような空気が、私たちの足元に纏わりつく。地上とは明らかに違う、閉鎖された空間の匂い。凛音は何も言わず、私の手を引いたまま、長く続く無機質な廊下を歩き始めた。等間隔に並んだ非常灯の、青白い光だけが私たちの進む道を照らしている。コツ、コツ、と私たちの足音だけが響くその空間は、まるで世界の底に向かって歩いているような錯覚を覚えさせた。
やがて、一番奥にある重厚な防音扉の前で、凛音は足を止めた。プレートには『レッスンルーム』とだけ、素っ気なく記されている。ここが、彼女たちが完璧なパフォーマンスを生み出すための、汗と努力の場所のはずだった。
凛音は、私のほうを一度振り返った。その瞳には、これから始まる舞台を楽しむかのような、残酷なまでの期待の色が浮かんでいる。彼女はノックすらせず、静かにドアノブに手をかけ、ゆっくりと、しかし躊躇なく、その扉を押し開いた。
最初に私の目に飛び込んできたのは、壁一面を覆う巨大な鏡だった。そして、その鏡に映し出されていた光景に、私の脳は、一瞬、理解を拒んだ。
――そこは、地獄だった。あるいは、私の歪んだ欲望が具現化した、倒錯の楽園だった。
ステージの上で、あれほど清らかに輝いていた少女たちの姿は、どこにもなかった。清楚なアイドルの仮面を脱ぎ捨てた彼女たちは、汗と唾液に濡れそぼり、互いの身体を貪り合うように求めていた。
フロアマットの上では、ほんわか担当だったはずの心音が、小動物のように愛らしい柚の脚の間に顔を埋め、濡れた音を立てている。柚は苦しげに、それでいて恍惚の表情で喘ぎながら、心音の髪を掻きむしっていた。
壁際の鏡の前では、元気担当の陽葵が、クールなお姉さんだったはずの麗華を壁に押し付け、その唇を激しく吸っている。二人の舌が絡み合い、衣装の隙間から差し込まれた互いの指が、それぞれの柔らかな場所をいやらしく掻き回していた。
時間が止まったかのように、私はその場に立ち尽くす。目の前の光景が信じられなかった。違う。こんなのは嘘だ。私の女神たちが、こんな、淫らなことをするはずがない。恐怖で全身が震え、歯の根がカチカチと鳴る。今すぐ踵を返し、ここから逃げ出さなければならない。
そう、頭では分かっているのに。
私の身体は、正直だった。恐怖とは裏腹に、その淫蕩な光景に釘付けになっていた。そして、私の意思とは無関係に、衣装の下の、秘められた場所が、じわりと熱を帯び、恥ずかしいほどに濡れていくのを、はっきりと感じてしまった。
恐怖と興奮。嫌悪と陶酔。矛盾した感情の嵐に、立っていることさえままならない。
ふと、隣に立つ凛音に視線を移す。彼女は、部屋の中で繰り広げられる乱れた宴には目もくれず、ただ、私のことだけを、じっと見ていた。その唇には、獲物の反応を確かめるかのような、満足げな笑みが浮かんでいた。彼女は、すべてを知っていたのだ。私がこの光景を見て、恐怖に震えながらも、同時に、歓喜してしまうことを。
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#### 第十話:凛音の問い
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。地獄のような、しかし蜜のように甘い光景を前に、私はただ立ち尽くしていた。恐怖と興奮の狭間で思考は完全に麻痺し、自分の身体でありながら、その感覚さえもが遠のいていく。鏡に映る自分は、見たこともないほどに頬を赤く染め、瞳を潤ませ、だらしなく口を半開きにしていた。
その時、ふわりと、背後から甘い香りがした。凛音だ。彼女は、私が凍り付いていることなど気にも留めない様子で、音もなく私の背後に回り込んでいた。そして、その冷たい唇を、私の耳朶に触れるか触れないかの距離まで、ゆっくりと近づけてくる。
「――恵ちゃん」
吐息と共に鼓膜を震わせたその声に、私の心臓は鷲掴みにされたかのように激しく跳ねた。
「私たちは、知ってるんだよ」
ぞわり、と全身の産毛が逆立つ。凛音の囁きは、悪魔の子守唄のように、静かに、しかし確実に私の理性を蝕んでいく。
「恵ちゃんが、私たちみたいな若い女の子に欲情する、ド淫乱なレズだってこと。……私たちのグラビア写真を見ながら、毎晩オナニーしてるんですってね?」
―――どうして。
その言葉は、声にならなかった。血の気が引いていくのが分かる。頭を鈍器で殴られたような衝撃。なぜ、そのことを知っている? あの秘密のアカウントのことは、誰にも、絶対に誰にも知られるはずのない、私だけの聖域だったはずだ。それなのに。
私が声もなく狼狽えていると、凛音の細い腕が、私の腰にゆっくりと回された。まるで恋人を抱きしめるかのように優しいその仕草は、今の状況においては、蛇が獲物に絡みつく様を想起させた。
「どう? この状況」
凛音は、私の腰を官能的に撫でながら、さらに言葉を続ける。
「本当は、望んでたんでしょ?」
違う、と叫びたかった。けれど、喉が張り付いて声が出ない。何よりも、私の身体が、その言葉を肯定するように、熱く、疼いてしまっている。
「私たちのこと、いつも性的な目で見てたもんね。ライブ中も、チェキ会の時も……いつかこんな風に、めちゃくちゃにされたらいいなって、ずっと思ってたんでしょ?」
問いかけの形をしているが、それは紛れもない断定だった。私の全ては、この少女によって完全に見透かされ、暴かれてしまっていた。完璧な優等生である「白鷺恵」の仮面は粉々に砕け散り、その下から現れたのは、ただ欲望のままに喘ぐ、醜い雌の姿だった。
もはや、否定することも、肯定することさえもできない。私は、ただ震えることしかできなかった。凛音は、そんな私の反応を心底楽しむかのように、私の耳元で、くすくすと悪魔のように笑った。
鏡の中の私は、背後から美しい少女に抱きしめられながら、絶望と、そしてほんの少しの歓喜に顔を歪めていた。
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#### 第十一話:屈辱の始まり
凛音の悪魔のような笑い声が、私の砕け散った自尊心に突き刺さる。彼女は満足げに私から身体を離すと、まるで女王が臣下に語りかけるかのように、部屋の中央で痴態を晒していたメンバーたちに向かって、ゆっくりと歩き出した。
彼女たちの行為は、いつの間にか止まっていた。乱れた衣装、上気した肌、そして欲望に濡れた瞳。その全ての視線が、今、私という異物に、ただ一点に集中している。獲物を前にした、飢えた獣たちの視線だった。
凛音は、彼女たちの前に立つと、芝居がかった仕草で私のことを指さした。
「ねえ、みんな。この子、私たちのこと、性的に好きなんだって」
その声は、静かなレッスン室に朗々と響き渡った。
「だから、今から、この子を私たちが思う存分、可愛がってあげようと思うんだけど」
そこで一度言葉を切ると、凛音はゆっくりと私のほうに顔を向けた。その瞳には、もはや慈悲など一片も宿ってはいない。ただ、私の魂の奥底までを見透かすような、冷たい光が揺らめいているだけだった。
「――恵ちゃん、それでいいよね?」
それは、選択の余地などない、最後の通告だった。逃げ場はない。私の秘密はすべて暴かれ、尊厳は踏みにじられた。ここで「嫌だ」と叫んだところで、何かが変わるわけではないだろう。むしろ、さらに惨めな辱めを受けるだけかもしれない。
恐怖が、全身を支配する。けれど、それと同時に、心の奥底で、黒く、歪んだ歓喜が芽生えていることにも、私は気づいてしまっていた。私の醜い妄想が、今、現実になる。女神たちに、性の玩具として弄ばれる。その背徳的な快感が、恐怖を上回り、私の思考を支配しようとしていた。
違う。違う。そうじゃない。心の中の、かろうじて残った理性が、必死に叫び声を上げる。
けれど、私の身体は、もうとっくに答えを決めていた。
こくり。
誰にも聞こえないほどの、小さな動き。けれど、それは確かに、肯定の証だった。私の意思とは関係なく、私の首が、まるで操り人形のように、縦に小さく動いたのだ。
この沈黙の同意が、私の運命を決定づけた。
その瞬間、凛音の唇が、満足げに吊り上がったのが見えた。それが、合図だった。
それまで様子を窺っていたメンバーたちが、一斉に、にたりと口元を歪める。陽葵と柚が、私の両脇に音もなく近づいてきた。そして、その華奢な腕が、しかし抗うことのできない力で、私の身体を掴んだ。
抵抗は、しなかった。いや、できなかった。性的快楽への期待と、自己嫌悪で理性を失った私は、なされるがままに、部屋の中央に置かれた巨大なフロアマットの上へと引きずられていく。
どん、と背中から乱暴に倒される。冷たく、少し粘つくようなマットの感触が、背中に広がった。視界に映るのは、薄暗い天井と、私を見下ろす五人の女神たち――いや、五人の悪魔たちの、飢えた笑顔だけだった。
ああ、これが、私の望んだ地獄の始まりなのだ。
---
#### 第十二話:快楽の共鳴
仰向けに倒された私の視界には、私を見下ろす五つの顔が映っていた。その表情に、ステージの上で見せる天使のような無垢さは微塵もない。そこにあるのは、獲物を前にした捕食者の、飢えた好奇心と嗜虐的な光だけだった。
「見て、恵ちゃん。顔、真っ赤だよ」
「うわ、衣装の下、すごい汗。そんなに興奮してるんだ?」
「ねえ、私たちのこと考えながらオナニーする時って、どんな声出すの? 聞かせてよ」
メンバーたちの口から、次々と投げかけられる卑猥な言葉の礫。その一つひとつが、私の羞恥心を抉り、心を切り刻んでいく。けれど、その屈辱とは裏腹に、私の身体は、熱く、熱く、疼きを増していく。この状況そのものが、私の秘められた欲望を的確に刺激していた。
最初に動いたのは、心音と柚だった。二人は私の両側に跪くと、まるで熟れた果実を味わうかのように、私の身体に触れ始めた。一人は私の唇を塞ぎ、抵抗の声を封じながら、もう一人は衣装のスカートを乱暴に捲り上げる。そして、湿り気を帯びた下着越しに、私の最も敏感な場所を、指先でなぞった。
「んぅ……っ!」
声にならない喘ぎが、唇の隙間から漏れる。やめて、という思考は、脳を焼くような快感の波によって、瞬く間に掻き消されていった。経験したことのない、直接的で、あまりにも強い刺激。私の理性を繋ぎとめていた最後の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた。
「あ、ぁ……ん、あ……っ!」
もはや、羞恥心などなかった。ただ、欲望のままに腰が揺れる。快感を求める本能が、私のすべてを支配していた。心音と柚は、そんな私の様子を面白がるように、さらに執拗に、指と舌で私の秘所を嬲り立てる。脳が真っ白に染まり、視界が明滅する。そして、身体の芯が弾けるような、強烈な衝撃と共に、私は初めての絶頂を迎えた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
痙攣する身体で、浅い呼吸を繰り返す。これで、終わりにしてくれるのだろうか。そんな淡い期待は、すぐに打ち砕かれた。
「すごい、一回イっただけなのに、もうびしょびしょだね」
「まだまだ、こんなものじゃ足りないでしょ?」
息を整える間もなく、今度は陽葵と麗華が私に覆いかぶさってきた。すでに一度解放された私の身体は、以前よりもずっと敏感になっていた。陽葵の指が私の内側を掻き回し、麗華の舌が私の胸の突起を弄ぶ。その二方向からの攻撃に、私はなすすべもなく、再び快感の渦へと引きずり込まれていく。
鏡に映った自分の姿が、視界の端に映った。五人の少女たちの中央で、だらしなく脚を開き、快楽に溺れる女の姿。それは、私が心の奥底で、ずっと夢見ていた光景そのものだった。
ああ、そうだ。私は、こうなりたかったのだ。私の女神たちに、めちゃくちゃにされたかったのだ。
その認識が、最後の枷を外した。私はもはや思考することをやめ、ただ、与えられる快感のすべてを、身体で受け止めるだけの存在となっていた。喘ぎ声が、淫らな水音と共鳴し、レッスン室の空気を震わせる。私の理性は完全に崩壊し、欲望の奴隷と成り果てていた。
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#### 第十三話:快楽の奴隷
何度、絶頂を迎えさせられただろう。快感の嵐が過ぎ去った後、私の身体は、まるで自分のものではないかのように、ぴくりとも動かなかった。思考は白く濁り、ただ、天井の染みを見つめることしかできない。もう、何も考えたくなかった。このまま、意識が闇に溶けてしまえばいいとさえ思った。
そんな私を嘲笑うかのように、それまで一歩引いて高みから見物していた凛音が、ゆっくりと私の傍らに膝をついた。ああ、まだ、終わりではないのか。絶望が、再び私の心を支配する。
しかし、彼女の次の行動は、私の予測を完全に裏切るものだった。凛音は、私の身体に触れる代わりに、マットの上に投げ出されていた私の右手首を、そっと掴んだのだ。
「恵ちゃん、疲れてるみたいだから。今度は、恵ちゃんの手で、私を気持ちよくさせて?」
それは、紛れもない命令だった。私の意思など関係なく、凛音は私の手を引くと、自身の乱れた衣装のスカートの中に、それを導いた。
指先に、熱く、濡れた感触。それが、私の崇拝する女神の、最も柔らかな秘所だと気づいた瞬間、私の脳を、恐怖と、そしてこれまで感じたことのない種類の興奮が同時に駆け巡った。
「んっ……」
凛音は、私の指が彼女の肌に触れただけで、甘い声を漏らした。そして、私の手首を掴む彼女の手に力が込められ、私の指は、彼女の意思のままに、いやらしい動きを強制させられる。自分の指が、憧れの人の内側で蠢いている。その信じがたい事実に、私の思考は追いつかない。
「あ……恵、ちゃん……もっと……」
喘ぎながら、凛音は私の名前を呼んだ。その声が、引き金だった。
―――私の女神が、私の指で、感じている。
その背徳的な事実は、私の脳内に、麻薬のように強烈な快感をもたらした。これまで、私はただ一方的に快楽を与えられるだけの存在だった。けれど、今は違う。私が、この手で、姫ノ宮凛音という完璧な存在を、快楽に乱れさせている。それは、屈辱であると同時に、倒錯した支配欲を満たす、至高の喜びだった。
「あぁっ! もう、ダメぇ……!」
やがて、凛音は甲高い嬌声を上げると、全身を大きく痙攣させた。私の手の中に、熱い奔流が注ぎ込まれる。絶頂を迎えた彼女は、ぐったりと私の胸の上に倒れ込んできた。その荒い呼吸と、速い鼓動が、ダイレクトに私に伝わってくる。
この瞬間、私の中にあった最後の何かが、決定的に壊れてしまった。
ファンとアイドル。崇拝する者とされる者。その境界線は完全に取り払われ、歪に溶け合ってしまった。恐怖も、羞恥心も、もはやどこか遠い世界の出来事のようだ。
ただ、事実だけがそこにある。
この瞬間、白鷺恵という人間は完全に消滅し、私は彼女たちの性の玩具――快楽の奴隷と成り果てたのだった。
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#### 第十四話:凛音の欲望
私の胸の上で荒い呼吸を繰り返していた凛音が、ゆっくりと身体を起こした。その瞳には先ほどまでの恍惚の色はなく、代わりに、これから始まる饗宴の主役を見定めるような、冷たく燃える光が宿っていた。彼女は、まだ息を整えている他のメンバーたちを一瞥すると、楽しげに、しかし有無を言わせぬ響きをもって宣言した。
「みんな、お待たせ。いよいよメインディッシュの時間だよ」
その言葉が何を意味するのか、私にはすぐに分かってしまった。他のメンバーたちとの行為は、すべて前菜に過ぎなかったのだ。これから行われる、この女王による最後の儀式こそが、この宴のすべて。
凛音は、再び私の上に跨ると、その両手で私の腰を掴み、動けないように固定した。そして、私の耳元に、熱く、ねっとりとした吐息を吹きかけながら囁く。
「恵ちゃんのここ……誰にも触れさせたことのない、未使用の処女まんこなんでしょ? 私が、ぐちゃぐちゃにしてあげるね」
その、あまりにも直接的で、侮辱的な言葉。彼女にとって、私はもはや白鷺恵という個人ではない。ただ、彼女の征服欲を満たすための、記号であり、肉塊でしかなかった。その事実が、氷の刃のように私の心を突き刺す。
けれど。ああ、けれど。
私の身体は、その屈辱にさえも、甘く疼いてしまう。私のすべてを捧げた女神に、私の最も神聖な場所を、奪われる。それは、信者として最高の殉教ではないのか。
凛音は、私のそんな葛藤を見透かすように、にやりと笑った。そして、自身の腰をゆっくりと下ろし、互いの秘所が寸分の隙間もなく密着するよう、その身体を重ね合わせてきた。
「―――っ!」
熱い。焼けるように熱い。互いの粘膜が直接触れ合う、生々しい感触。凛音は、まるで私という楽器を奏でるかのように、ゆっくりと、しかし確実に、腰を擦り付け始めた。
私の脳裏で、崇拝と屈辱が、聖と俗が、激しくぶつかり合う。
(ああ、凛音様……私の女神様……私のすべてを、あなたに捧げます……)
そう祈る敬虔な私がいる一方で、もう一人の私が、心の奥で叫んでいた。
(違う、私は、ただの性欲処理の道具じゃない……!)
だが、その悲痛な叫びは、凛音が刻む、激しい快感のリズムによって、すぐに掻き消されていった。熱と、圧迫と、摩擦。そのすべてが、私の身体の最も敏感な一点に集中し、思考を溶かしていく。
「恵ちゃん、すごい……びくびくしてる……可愛い……っ」
凛音の喘ぎ声が、私の名前を呼び、私を賞賛する。その声が、私の最後の理性を焼き切った。もう、どうでもいい。このまま、この女神様と、快楽の底まで堕ちていけるのなら。
「あ、あああああっ!」
「ん、んぅうううっ!」
ほとんど同時に、私たちの身体が大きく、激しく痙攣した。視界が真っ白に染まり、思考が消し飛ぶ。熱い奔流が互いの肌の上を伝う感覚だけが、この世との唯一の繋がりだった。
長い、長い絶頂の後。私の目に映ったのは、汗だくのまま私を見下ろし、獲物を仕留めた獣のように、勝ち誇った笑みを浮かべる凛音の姿だった。
私は、身も心も、完全に彼女のものとなった。
---
#### 第十五話:敗北宣言とマネージャーの提案
身も心も、完全に征服された。快感の余韻で微かに震える身体の上で、凛音は勝ち誇ったように私を見下ろしている。もう、私の中に、彼女に抗う意志など一片も残されてはいなかった。私はただの抜け殻であり、彼女が魂を注ぎ込むのを待つだけの人形だった。
凛音は、そんな私の瞳を覗き込みながら、まるで最後の止めを刺すかのように、その唇をゆっくりと動かした。その声は、甘く、ねっとりとしていて、脳の髄まで溶かしていくようだ。
「ねえ、恵ちゃん。もう一度聞くね」
彼女は私の髪を優しく撫でる。その仕草とは裏腹に、紡がれる言葉は、この世で最も残酷で、屈辱的なものだった。
「私のおまんこに屈服して、L'Arc-en-ciel de Nuit専用の、性処理おまんこになりたい?」
その問いは、もはや私の意識には届いていなかった。私の世界は、快感の残滓と、凛音という絶対的な存在だけで構成されていた。彼女の言葉は、神の託宣。彼女の望みは、私のすべて。
思考ではない。魂の、本能の叫びだった。
「……なり、ます」
掠れ、途切れ途切れの、しかしはっきりとした肯定の言葉が、私の唇から零れ落ちた。
その瞬間、凛音の瞳の奥が、満足げにきらりと光った。
そして、次の瞬間。信じられないことが起こった。
凛音は、すっと私の上から身体を退かすと、何事もなかったかのように立ち上がった。あれほど私を貪っていた情欲の熱は、まるで幻だったかのように綺麗に消え去り、その表情は、冷徹なまでの落ち着きを取り戻している。彼女だけではない。周りを取り囲んでいた他のメンバーたちも、いつの間にか興奮を鎮め、どこか醒めたような、それでいて値踏みするような視線を私に送っていた。
部屋の空気が、一変した。熱く湿っていたはずの空気は、氷のように冷たく、張り詰めている。
凛音は、部屋の隅に置いてあった自分のバッグに歩み寄ると、中から一枚のクリアファイルを取り出した。そして、未だマットの上で呆然と横たわる私の元に戻ってくると、そのファイルを、無造作に私の裸の腹の上に、ぽんと置いた。
「―――恵ちゃん」
その声の響きは、先ほどまでとは全くの別人のものだった。甘さは消え、感情の乗らない、ビジネスライクな、平坦な声。
「うちの事務所で、マネージャーとして働いてみない?」
腹の上に置かれた書類。その一番上には、『業務委託契約書』という、あまりにも場違いな文字列が、黒々と印刷されていた。
---
#### 第十六話:新たな日常
どれくらいの時間が経ったのか、もはや分からなかった。意識が、深い海の底からゆっくりと浮上してくるような感覚。最初に感じたのは、身体のあちこちに残る気怠い痛みと、肌に張り付く不快な粘つきだった。
ゆっくりと目を開けると、私はまだあのレッスン室のマットの上に横たわっていた。けれど、部屋の空気は、あれほど満ちていた淫らな熱気を失い、氷のように冷え切っている。私を見下ろす少女たちは、いつの間にか私服に着替え、まるで何もなかったかのような涼しい顔で、ただ静かに私を観察していた。
私の視線が覚醒したことに気づくと、椅子に座っていた凛音が、一つのスマートフォンを私の目の前に滑らせた。画面に表示されていたのは、目を覆いたくなるような光景だった。
―――それは、先ほどまでここで繰り広げられていた、乱交の記録。
少女たちに囲まれ、だらしなく身体を開き、快楽に顔を歪める私の姿。一枚、また一枚とスライドされる写真は、私の罪と屈辱を、否定しようのない事実として突きつけてきた。
「……っ」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。凛音は、そんな私の反応を待っていたかのように、再びあの『業務委託契約書』を、私の腹の上に置いた。
震える指で、その紙を手に取る。頭がうまく働かない。けれど、その中の一つの条文だけが、やけにはっきりと私の目に飛び込んできた。
『――乙(白鷺恵)は、甲(所属アーティスト)の心身の健康を維持するため、その要求に応じて適切なケアを提供すること』
適切な、ケア。その言葉の、本当の意味。それは、第三者が見れば当たり障りのない業務内容。だが、この地獄を経験した私には、それが何を指しているのか、痛いほどに理解できた。これは、奴隷契約書だ。
凛音は、無言で一本のボールペンを差し出した。NOと言える選択肢は、どこにも存在しなかった。この写真をばら撒かれたら? 大学にも、友人にも、家族にも、私の本当の姿が知られてしまったら? それだけは、絶対に避けなければならない。
私は、まるで重い枷を引きずるように、ゆっくりと身体を起こした。そして、差し出されたペンを、力なく受け取る。ペンを握る指が、自分の意思とは関係なく動くような感覚だった。
契約書の末尾にある署名欄に、私は震える文字で、『白鷺恵』と書き記した。インクが紙に染み込むのを見ながら、自分の魂が吸い取られていくような錯覚を覚えた。その三文字は、もはや私の名前ではなく、私という人間の死亡証明書のように見えた。
私がサインをし終えたのを確認すると、凛音は満足げに契約書を回収した。そして、完璧な、しかし一切の温度を感じさせない笑顔を私に向ける。
「これからよろしくね、新しいマネージャーさん」
その声は、悪魔の祝福のように、私の耳に響いた。
「公私ともに、私たちを支えてね」
* * *
私の日常は、二つになった。
昼は、大学で、誰もが羨む完璧な「白鷺恵」を演じ続ける。友人の相談に乗り、穏やかに微笑む。けれど、その瞳の奥には、もはや以前のような輝きはない。
そして夜は、彼女たちの「マネージャー」となる。ライブの裏方として働き、身の回りの世話をする。そして、彼女たちの「要求」があれば、いつでも、どこでも、「適切なケア」を提供する。レッスン室で。楽屋で。時には、遠征先のホテルで。
あの日以来、私の裏アカウントが更新されることは、二度となかった。妄想を吐き出す必要など、もうないのだから。現実は、私の最も醜い妄想を、とっくに追い越してしまった。
今日もまた、一つのライブが終わる。フロアの片隅で、私はただ、虚ろな瞳でステージの撤収作業を眺めていた。これから始まる、もう一つの仕事のために。私の楽園であり、地獄である、新たな日常のために。
私の頬を、一筋の涙が伝ったことにも、気づかないまま。
---
#### エピローグ
あれから、数年の歳月が流れた。
私は大学を卒業し、あの芸能事務所の正社員になっていた。窓から都会のオフィス街を見下ろせる、綺麗なオフィス。そこでパソコンに向かい、新人アイドルの資料をまとめるのが、私の今の日常だ。かつて、昼と夜で二つの顔を使い分けていた頃の不安定さは、もうどこにもない。私の生活は、良くも悪くも、この場所に完全に統合されてしまった。
一世を風靡したわけではなかったが、熱狂的なファンに支えられていた『L'Arc-en-ciel de Nuit』は、もう存在しない。人気が頭打ちになったこと、そして大学卒業という節目を迎え、メンバーそれぞれが別の道を歩み始めたこと。表向きは、そんな当たり障りのない理由で、彼女たちのグループは静かに解散した。あのレッスン室で繰り広げられた淫らな宴も、今となっては遠い昔の夢のようだ。
「――恵、この子たちの資料、まとまった?」
凛とした、しかし数年前の少女の響きとは違う、落ち着いた声が私の名を呼んだ。振り返ると、すっかり大人の女性としての風格を身につけた凛音が、私のデスクの隣に立っていた。彼女はアイドルを引退した後、父親の会社であるこの事務所の経営に携わり、今では新人開発部門のプロデューサーという肩書を持っている。
「はい、凛音プロデューサー。候補生のリストは、こちらになります」
私は、感情を殺した声で資料を手渡す。凛音はそれに目を通しながら、ふと、面白そうに口元を綻ばせた。
「あんたの資料は、本当に丁寧で助かるわ。まさか、ここまで真面目に仕事するとは思ってなかった」
「……光栄です」
「まあ、当然か。表も裏も、あれだけ甲斐甲斐しく『ケア』できる人間なんて、そうはいないものね」
その言葉に、一瞬だけ、身体の奥が疼く。そうだ。私たちの関係は、何も変わっていない。彼女は私の雇い主であり、支配者。そして私は、彼女の忠実な僕。ただ、その奉仕の形が、少しだけ変わったに過ぎない。意外にも、私のそんな献身的なまでの世話好きと、どんな命令にも従う仕事態度は、凛音にビジネスパートナーとして高く評価される要因となっていた。
凛音は資料から顔を上げると、最終決定を下すように、私に告げた。
「この子たちで、新ユニットを立ち上げる。そして、そのマネージャーは、恵、あんたにやってもらうから」
その辞令を、私は静かに受け入れた。パソコンのモニターに映るのは、これから私が担当することになる、まだ何も知らない、夢と希望に満ちた少女たちの笑顔。彼女たちの輝く瞳を見つめながら、私は自分の未来を、そして彼女たちの未来を思った。
再び、あの楽園と地獄が、やってくる。
私の唇に、諦観とも、あるいは歓喜ともつかない、微かな笑みが浮かんだことにも、きっと誰も気づかないだろう。
夜虹のマネージャー 舞夢宜人 @MyTime1969
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