マスクマン in newyork

北川エイジ

1

 おれはいまニューヨークに来ている。自動車工場の期間従業員として必死に働き、貯めた金でようやくおれは念願を果たすことができている。


ジャズクラブにふらっと入ってみたり、セントラルパークをてくてく歩いたり、昨日は一般的な観光客として一日を過ごした。


今日からはずっとやりたかったことをやるつもりだ。旅行の主な目的は裏通りである。裏通りそのものにだ。そこの空気を吸ってみたかった。例えば小さなアートギャラリーがあるはずで、べつに入りはしなくても周辺の空気感さえ味わうことができればよしと考えている。


錯覚なのであろうが錯覚かどうかはこの際どうでもよい。おれはとにかくそうした空気に自分が呼ばれているような気がしていたんだ。十代後半からずうっとだ。


レストランやブティックが並んだ通りを抜け、とにかくおれは歩いた。もちろんここは異国であり警戒を怠ってはならない。


が、まあしかし、その手のトラブルも本音を言えばOKだ。女とは別れたし友達とも距離があるし親ともうまくいっていない。おれが手に入れるべきなのはもしかしたらトラブルなのかもしれない。


ふと気づくとおれは人通りのない一角を歩いていた。空気の感じが違うように思う。苔の匂いというか、苔は見あたらないのに不可思議な匂いが鼻につく。


あちこちヒビが入った灰色の路面。古いアパートと寂れた雑居ビル的な建造物が立ち並ぶ貧相な空間だ。黒い非常階段が目につく。奇妙なのは動くものが視界にないことだ。おれはまるで何かの罠にはまったような感覚に襲われていた。


 と、おれは目の前の道路にうつ伏せで倒れている人間に気づいた。進行方向の少し右てに転がっている。黒髪の、スカジャンに似たよれよれの青いブルゾンをまとう人間、、薬物中毒だろうか?

 こんなのに関わってはならない。おれはそいつを見ないようにしてこの場をすり抜けようとした。


 その時地面から声が放たれた。


「驚いたな」


 日本語である。


「同じ日本人をなぜ放っておくんだ」


 声には強い怒りが込められていた。男は身を起こし、路地に座った体勢でおれを睨む。歳は三十代前半辺りか。


「うつ伏せじゃ顔はわかりませんよ。ジャンキーだったらヤバイじゃないですか」


 男は立ち上がって言った。


「お前に人の心はないのか」


「おれは単なる観光客なんで。じゃ」


 おれは立ち去ろうとする。


「待て待て」


「なんすか」


「話を聞け」


「あなたは観光の予定に入ってません」


「俺を観光しろ。俺が観光だ」


「はあ?」


 こいつはヤバイ。何とか逃げなければ。


「俺はリアルのニューヨーカーだ」


 それはそうなんでしょうけどね。


「仕事は何を?」


「絵描きだ。アーティストだな」


「そうですか。じゃ」


 去ろうとしたがなぜか体が重くうまく動けない。


「アーティストを尊敬しろ」


「観光で来てるだけなんで」


「尊敬しないのか?」


「尊敬してる人もいますよ」


「誰?」


「ウォーホルとかプリンスとか」


「古いなどこがいいの?」


「いや、観光中ですので。じゃ」


「待て待て。話を聞け」


「何の話ですか」


「伝説のF、、F伝説をな」


「Fは人名ですか」


「いや。ニックネームだな」


「ではFさんによろしく。じゃ」


「待て待て後悔するぞ」


 おれは周囲を見渡した。寂れた街の風景のなかにおれたち以外誰もいない。なんの音もしない。明らかに何かがおかしい。何かが狂ってる。


「アーティストをないがしろにすると祟りがあるぞ。コーカイスルーゾとタタリガアルーゾのふたりがお前を襲撃するだろう。孤独な夜にな。お前はその時思い出すだろう、俺の顔を。この日のことを」


 おれは驚いて「えっ!」と声を発していた。

いきなり住人と思われる人々が四方からこちらに向かって走ってくる。


人種は多様だ。男も女もいる。若いのも中年もいる。数えると十二人いた。十二人は男の後ろに横に広がって整列し、息を整えると歌い始めた。コーラスが街角に鳴り響く。


マルデ! ボクラハ、ヒロイウーミニィー♫


ウーカンダ、チーイーサナ、フネーノヨオーダネー♫


 微妙な日本語である。しかし練習を重ねた時間を感じることができる真摯な歌声だった。コーラス隊の歌声がやみ、男が歌をつづけた。


たああてのいとはああなた♫


よおおこのいとはわたしい♫


 違う歌だ。勝手に歌っていいのか?


「はいはいもういいです。ここまでです」


 おれがそう言うと多種多様な十二人、各々が身を翻して左右に駆け出し散らばっていった。おれが見ているのは幻影なのか。


 男が言った。


「まさしくファントム! 俺がしたいFの話はここの住人がファントムと呼ぶ男ッ! ファントォム!」


「そうですか。じゃ」


「待て待て。お楽しみはこれからだ。ファントムはしかし、俺個人は別の名で呼んでいる」


「なんでまた」


「その話をしようと思うんだ。友よ」


 おれは黙り、待ちの姿勢をとった。


「どうした?」


「や、何か歌い始めるのかと思って」


「歌はもうない。本題に入るから。さっきのはイントロダクションさ。そして大事なことをひとつ教えよう。いいか? いまお前は俺の夢の中にいるんだ。夢の世界の住人なのさ。俺が目覚めればお前の存在は消えてしまう。儚いな。しかし、ならばこそ尊い命だ」


「幻影がですか?」


「ゲンエーイ! Fu u u! しっかし糸ってのはさ、最初のサビの“た”の一音で感動させるのは中島みゆきだけなんだよね。カバーは無数にあれども。あれはなんであの一音に人生や世の中のあれこれを凝縮できるんだろうな?」


「おれに訊かれましても」


「プリンスにあんなような曲はないの?」


「しいて言えばゴールドではないかと」


「パープルレインより上?」


「上も下もないです。どちらも名曲です」


「いや、パープルレインより上なんてありえようもないだろう」


「パープルレインと鳩が啼くときは同じくらい好きですね」


「不思議な日本語だな。ビートに抱かれてではなくて? ビートに抱かれてってなんだよ」


「おれに言われましても」


「ハトーガッ! ナクトォキ! Fuuu!」


「フーと言われましても」


「お前はッ! Fuuuの意味をッ! いつか知るだろうッ!」


「そうですか。じゃ」


「待て待て。何も始まってないじゃないか。本題に入るって言ったろ。本題に入るって、言っただろうが! イッタダローガー! デンジンザボーガー!」


「何怒ってんすか。こっちですよ怒りたいのは。観光の時間をつぶされて」


「俺が観光だと言ったはずだ。耳がわるいのか? 俺を体験しろ、いや、お前はいま、このリアルタイムに俺を体験しているのだ。まさにリアルタイムにだ」


「よくわからないです」


「夢の中の住人よ。お前は俺であり俺はお前だ。我々は一体なのだ。運命共同体でもある」


「まったくわからないです」


「だが? しかーし? 俺はお前のオマージュかもしれない。あるいはお前は俺のオマージュなのかもしれない。つまり俺が言いたいのは俺はお前なのかもしれないってことだ。わかるか?」


「わかりません」


「その男は深夜に動き出す。善良な人々を悪から守るために」


「え? ああ、Fさんの話ですか」


 急に始まった。


「深夜に治安維持活動を行う男をここの住人はファントムと呼んでいる。エメラルドグリーンのマスクをかぶっているため正体は不明だ。いったい誰なのか。彼はいったい何者なんだろう?」


「誰なんですかね」


「彼は丸腰だ。敵は銃やナイフを持っている。どうやって戦っているのか」


「危ないですね。正気ではないですね」


「マーシャルアーツさ。彼は人外のスピードで動けるのさ。相手が引き金を引くより速く攻撃ができる」


「ほう」


「と聞いている。見たことはないからな。しかし速すぎて見えないのではないかと思うんだ」


「でしょうね。夜でもありますし」


「彼はこれまで十数人の人々を救ってきた。彼は強い。治安維持活動は立派な行為だ。かつ報酬を求めない人間性、ボランティア精神には頭が下がる。、、しかし一点問題がある。それゆえ尊敬はされにくい。誰も彼をヒーローとは呼ばない」


「なんでしょう問題とは」


「エメラルドグリーンのマスク以外、彼は何も身にまとっていないんだ。頭の下は全裸。洗練された筋肉質の肉体ではあるが、全裸なのだ」


「裸族ですかね、いわゆる」


「これを日本ではフリチンという」


「言いますね」


「そう、ゆえに私はこう呼ぶのだ。フリチンニューヨーカーと」


「そうですか。じゃ」


「待て待て。もうすぐクライマックスじゃないか」


「Fさんがフリチンなのはわかりました。これ以上なにか?」




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