第40話:藤沢 沙良

 ——もう駄目だ。

 すべてが水泡に帰す、と私は思っていた。


 亮に問い詰められ、啓介がDNA鑑定を口にした瞬間、胸の奥で絶望の鐘が鳴り響いた。

 こんなことになれば、詩織の人生も、私たち家族の形も取り返しがつかなくなる。


 けれど——啓介だけは落ち着いていた。


 彼の横顔を見つめながら、私はふと、昔のことを思い出していた。


 まだ私が総合商社で働いていた頃。

 彼が投資銀行に在籍していた時期のことだ。

 月に一度の会食時に、彼は金融庁検査——いわゆる「MOF検」の話をしてくれた。


 「MOF検はね、金融機関にとって最も恐ろしいチェックプロセスなんだよ。

  業務改善命令なんて出されたら致命傷。だからみんな必死に“ホワイトニング”をする」


 「ホワイトニング?」

 私が首をかしげると、彼は薄く笑った。


 「要は全部真っさらにして、指摘される余地を無くすようにキレイにするということだ。

  でもな、バカな奴はそれを本気で完璧にやろうとする。すると検査官は逆に『何か隠している』と疑ってしまい、かえって深掘りしてしまう。

  本当に見つかるとマズいものまで掘り出されるリスクも高まるんだ」


 彼は少し身を乗り出し、声を低くした。

 「オレはそんなバカことはしない。

  オレは“手頃なダミー”を必ず用意する。

  当然、お叱りは受ける。指摘もされる。

  でもそれは検査的には問題視される事であっても実は大した問題じゃない。

  それをさも大事であるかのように謹んで対応して、金融庁向けの回答書―三段表というのだが―を丁寧に作成して提出する。

  そうすれば、検査官は満足して帰っていくんだよ。

彼らだって仕事で来ているんだ。

何かやったという証明ができなきゃ彼らも困る」


 ——その時の彼の言葉が、今、鮮やかによみがえる。


 亮は啓介を「不倫相手」と決めつけている。

 その思い込みこそが、啓介が差し出した“ダミー”なのかもしれない。

 本当の核心には触れさせず、代わりに別の標的を用意する——彼らしい戦術。


 そして翌週末。


 関係者が再び揃った席で、DNA鑑定の封筒が届いた。

 緊張に包まれた空気の中、亮が封を切る。

 震える手で紙を取り出し、目を走らせた。


 数秒の沈黙。

 そして彼は声を押し殺すように読み上げた。


 「……広瀬啓介氏と藤沢詩織との間に、父子関係は認められず。親子関係存在確率——0%」


 室内の空気が一気に揺らいだ。

 詩織がその結論を聞いて嗚咽し、私はその肩を抱き寄せた。


 ——啓介と詩織の親子関係は「否定された」。


 これは啓介が描いたシナリオの一部なのだ。

 “ダミー”を差し出し、表面上の問題を片付けることで、より深い真実に誰も近づけさせない。

 そして、その策に守られているのが、自分と詩織なのだ。

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