第35話:藤沢 沙良

 啓介から電話があったのは、コンサートの数週間前だった。

 「詩織にドレスを新調してプレゼントしたいんだ」

 唐突にそう告げられて、私は思わず黙り込んだ。


 彼は当然のように続ける。

 「サイズを教えてほしい。オートクチュールで仕立ててもらうから」


 仕立て? 詩織に?

 頭の中で思わず繰り返した。

 結局、私は彼の希望に従い、スリーサイズを伝えた。


 指定されたのは、渋谷西武にある専門店。

 仕立て上がる予定の日に、私と詩織は渋谷で待ち合わせをして向かった。

 店内に入ると、すでにドレスは用意されていた。

 柔らかな生地の手触り、丁寧に縫い込まれた細部。

 ——まるで本当にお姫様の衣装のようだった。


 詩織が試着室から姿を現した瞬間、思わずため息が出た。

 少女の面影を残しながらも、確かに女性としての輪郭をまとい始めていた。

 店員が微調整を加え、仕上がったドレスを前に、詩織は頬を上気させていた。


 家に帰ると、亮への説明が必要だと思った。

 「知り合いの元広告代理店の方からチケットをいただいたの。余ったけど勿体ないからって。それで、折角だから詩織が一人で聴きに行くことにしたの」

 私はそう取り繕った。


 亮は驚く様子もなく、ただ苦笑いを浮かべた。

 「もう詩織もすっかり大人だなあ。女の子はすぐに成長するって聞いてたけど、本当だな。……つまらないなぁ」


 その言葉に、私は胸の奥がざらついた。

 考えてみれば、私自身は啓介にそんな扱いをされたことなど、一度もなかったのだ。

 娘にはお姫様のようにドレスを仕立て、最高の夜を演出する。

 それなのに、私には——。

 気づけば、詩織に愚痴をこぼしてしまっていた。


 「私はそんな風に扱ってもらったこともないのよ」


 すると詩織は、くすっと笑いながら言った。

 「それは同じ女性としての焼き餅ですか?」


 ——そのからかい方まで、どこか啓介に似ている。

 私は苦笑するしかなかった。


 コンサート当日。

 詩織は朝から美容室に行き、髪を丁寧に整えてもらい、メイクも軽く施された。

 仕立てのドレスを身に纏い、姿見の前でくるりと回る姿は、まさしく舞踏会へ向かうお姫様のようだった。


 「行ってきます!」

 勇んで家を飛び出す背中を見送りながら、私は胸が少しざわついた。


 夜遅く、約束通り、家の近くまでハイヤーが詩織を送ってきた。

 ドレスの裾を揺らしながら玄関を入ってきた彼女の笑顔は、まぶしいほどだった。

 「最高だったよ! 本当にお姫様みたいにしてもらえたの」


 ——啓介。

 あなたは娘を本当に大切にしてくれている。

 そのことは感謝すべきことなのに、どうしてこんなに複雑な気持ちになるのだろう。

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