第34話:藤沢 詩織

 その日、私は鏡の前に立ち、思わず頬を染めた。

 身に纏っているのは、パパが用意してくれたドレス。

 パパは事前にママからサイズを確認してもらい、渋谷のお店で仕立ててもらったオートクチュール。最後のサイズ合わせをするようにママと私はそのお店で試着をした。

 パパは仕事で同席できなかったけれど、「詩織はそろそろこういう経験もしておいた方がいい。そういう経験が女の子を成長させるんだ」と言ってくれたらしい。


 サイズは私にピッタリ。少しだけ裾を手直ししてもらっただけ。

 ——パパが、私だけのために用意してくれたドレス。

 それを着て行けることが、嬉しくて仕方なかった。


 ただ、沙良は少し拗ねたように言った。

 「私はそういうの、連れて行ってもらったことないのよ」

 まるで焼き餅を焼いているみたいに聞こえて、私は思わず笑ってしまった。

 ——ママもパパが今でも好きなんだな。

そう思うと、なんだか少し不思議な気持ちになった。


 夕方、赤坂のカラヤン広場でパパと待ち合わせた。

 春の空気を含んだ風にスカートが揺れる。

 人混みの中でパパを見つけると、胸が高鳴った。

 「詩織、よく似合ってるよ」

 その言葉に、私は思わず笑顔で頷いた。

 パパはスーツを決めている。かっこいい。

 そのパパの腕を捕まえてエスコートしてもらえた。

 ―すごく嬉しいな!


 会場は赤坂サントリーホール。

 「ウィーン・フィルハーモニーは世界最高のオーケストラなんだ」

 パパは私にそう説明してくれた。


 やがて照明が落ち、エッシェンバッハが指揮台に立つ。

 静寂のあと、音が溢れ出した。


 リストのピアノ協奏曲——力強さと繊細さが交錯する旋律。

 そしてマーラーの交響曲第3番。

 壮大で、長大で、まるで宇宙を見上げているような音楽。

 胸の奥が震え、涙が出そうになった。


 最後のアンコールは《美しく青きドナウ》。

 軽やかなワルツのリズムに、会場全体が包まれた。

 私の心も踊っていた。


 ——これが本物なんだ。

 世界最高の音楽を、パパと一緒に聴いている。

 その事実が、何よりも幸せだった。


 終演は夜8時。

 外に出ると、夜風がドレスを撫でた。

 けれどパパはすでに赤坂のレストランを予約してくれていて、二人だけで食事を楽しんだ。

 煌びやかなシャンデリアの下で、私はまるでお姫様みたいに扱われた。


 「今日は最高の思い出になったなら嬉しいな」

 パパの言葉に、私は胸がいっぱいで何も言えなかった。


 食事を終えると、用意されていたハイヤーで自宅近くまで送ってくれた。

 窓の外を流れる夜景が、夢の続きのように美しかった。


 ——今日は、私の人生で一番幸せな日。

 そう思った。

 パパにとって私はまだ子どもかもしれない。

 でも、私にとってパパは大切な人。

 この夜を、私は一生忘れない。

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