第33話:藤沢 沙良

 その日、詩織の帰宅はいつもより遅かった。

 玄関に入るなり、弾む声で私にだけ手渡してきたものがある。


 「お母さん見て! パパに会ったの!」


 差し出されたのは一枚のCDと、コンサートのチケット。

 詩織の頬は興奮で紅潮していた。


 「……パパに?」


 彼女はその日の出来事を、息を切らすように語り始めた。


 友達に誘われ、渋谷のタワーレコードのイベントに付き合った帰り道。

 友達が別フロアで盛り上がっている間、詩織はふと一人でエスカレーターを上り、クラシックコーナーに足を踏み入れた。

 誕生日会で啓介が「クラシック音楽が好きだ」と話していたことを、彼女はずっと覚えていたのだ。

 ——その延長で、自宅の棚にあったクラシックCDを少しずつ聴いていたらしい。


 そしてそのフロアで、彼女は見つけた。

 クラシックの新譜を、真剣な眼差しで物色している啓介を。


 「パパ!」


 背後から抱きついたのだという。

 どれほど驚いただろう……でも、彼は笑って受け止めてくれたらしい。


 「詩織ちゃんもクラシックに興味があるの?」


 そう聞かれて、詩織は得意げに答えた。

 「お誕生会で、パパがクラシック好きって言ってたから。少しずつ聴いてるの」


 啓介は嬉しそうに目を細め、「パパはマーラーもベートーヴェンも好きだよ」と語ってくれたらしい。

 そして、せっかくだからとラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》のCDを手渡してくれた。「これは女性にとても人気がある名曲なんだよ」とオススメしてくれたらしい。


 さらに——。


 「このチケットもプレゼントするよ。昔から付き合いがある広告代理店の人とついさっき会ったんだけど、このチケットを2枚くれたんだ。パパは一人で行こうかと思っていたけれど、折角だから一緒にどうだい?」


 渡されたのはウィーン・フィルハーモニーの来日コンサート。

 曲目はリストのピアノ協奏曲とマーラーの交響曲第3番。

 指揮者はエッシェンバッハ。

 これは本来ものすごく高価なチケットでそもそも入手自体が困難な筈。


 詩織が差し出したチケットを見て、私は胸の奥がざわめいた。

 それはまるで、父と娘が共有する“特別な世界”を象徴しているように見えた。


 私は笑顔を作りながら、心の中では複雑な思いを抱えていた。

 ——また一つ、詩織は啓介の世界を吸収してしまった。

 しかも偶然の出会いから、さらに深い繋がりを得てしまったのだ。


 詩織は本当に嬉しそうだった。

 「お母さん、やっぱりパパは本当にすごいね。パパが選んでくれた曲だから、絶対に大切に何度も聴くんだ!」


 その横顔は、誰が見ても父を尊敬する娘のそれだった。

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