第29話:藤沢 沙良

 詩織は、第一志望を「渋谷女学館」から一歩も動かさなかった。

 どれだけ周囲に別の選択肢を示されても、頑として譲らない。

 それどころか、自分で資料を取り寄せ、細かく読み込み、オープンスクールにまで申し込んでいた。


 ——ここまで本気になるなんて。


 私は、母として誇らしさを覚える一方で、胸の奥に重たいものを感じていた。


 その日の夕方、亮が珍しく早めに帰宅して、リビングでのんびりしていた。

 詩織はその隣にちょこんと座り、声をかけた。

 「お父さん、相談があるんだけど……」


 私はハラハラしながら、その場を見守った。


 詩織はパンフレットを取り出し、自然な笑顔で説明を始めた。

 「この学校ね、女子校だし、制服もすごく可愛いの。それに教育カリキュラムがしっかり整っていて……ここで勉強したいなぁって思うの」


 パンフレットを指でなぞりながら、淀みなく話す姿は、まるで練習してきたかのようだった。

 亮は「うんうん」と頷きながら耳を傾けている。


 そして、詩織は真っ直ぐな目で尋ねた。

 「この高校を第一志望にしたいんだけど……それでいい?」


 亮は少し笑って肩をすくめた。

 「ああ、それでいいと思うよ」

 そして私に視線を向けて、苦笑しながら言った。

 「女の子ってのは、勝手に大人っぽくなってしまって、つまらないなぁ」


 私は心底ホッとした。

 亮は詩織の説明を疑うこともなく、自然に受け入れてくれた。


 けれど、その説明の仕方、その準備の進め方。

 ——どう考えても、詩織一人でここまで整えられるはずがない。


 その裏側に、私は啓介の影をはっきりと感じ取っていた。


 後で詩織にこっそり確認した。

 「ねぇ……あの説明の仕方、誰かに相談したんでしょ?」


 詩織はあっさり頷いた。

 「そうだよ。パパからアドバイスもらったの」


 「いつ? どうやって?」

 「パパからスマホに電話くれたんだよ」


 私は言葉を失った。

 ——啓介さんが、詩織に直接電話を……。


 「……啓介さんはお仕事でとても忙しいの。頻繁に電話なんかしたら駄目よ」

 母として必死に釘を刺した。


 けれど詩織は、私の言葉を軽く受け流した。

 「でもパパは、『いつでも相談に乗るから、遠慮せず連絡しなさい』って言ってくれるもん」


 その言葉を聞いた瞬間、私は愕然とした。

 詩織はもう、私の言うことを素直に聞く姿勢ではなかった。

 彼女にとって「父」は亮ではなく、啓介なのだ。

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