第27話:広瀬 啓介

 沙良からの電話を受けたのは、夜遅い時間だった。

 彼女の声はいつになく狼狽していた。


 「啓くん……詩織がね、高校は渋谷女学館を目指すって言い出したの。理由を聞いたら……“パパのそばにいたいから”って……」


 言葉が詰まり、沙良が心底困惑している気配が受話器越しに伝わってきた。

 胸の奥に重いものが落ちてくる。

 ——やはり、そうなってしまったか。


 詩織にとって、自分が特別な存在になっていることは、分かっていた。

 年に一度の誕生日会、その短い時間だけであっても、彼女は吸い取るように話を聞き、まっすぐな瞳で未来を語りたがった。

 オレの言葉が、彼女の進路や価値観に影響していることも、肌で感じていた。


 けれど、それがついに——進学先の理由にまで結びつくとは。


 「……いい学校だよ」

 しばらく考えてから、オレは静かに言った。

 「詩織がどういう理由であれ、そこに入りたいと強く思っているなら、悪いことじゃない。あの学校なら、付き合う友達の幅も広がるし、自分のやりたいこと、目指したい方向を具体的に見つけられるはずだ」


 受話器の向こうで、沙良が息を呑む気配がした。

 「でも……“パパのそばにいたい”なんて理由、亮に言えるわけがない」


 オレは深く頷いた。

 「だからこそだ。——詩織には、もっと別の言葉で説明できるようにしてやらなきゃならない」


 「別の言葉……」


 「そうだ。学校や旦那さんには、“進学実績があるから”“語学教育に力を入れているから”とか、理由はいくらでもある。……嘘をつけということじゃない。ただ、詩織の気持ちを正直にそのまま言えば、誰も納得しないし、余計に疑念を招くだけだ」


 沈黙が落ちた。

 その沈黙の間に、オレ自身の胸には複雑な感情が去来していた。


 ——彼女がオレに憧れを抱いていることは嬉しい。

 だが、それに縋って未来を決めてしまうのは危うい。

 彼女の人生を縛る存在になってはいけない。


 「沙良。詩織には、ちゃんとオレからも伝えるよ」

 「……啓くん」


 「どんな理由であれ、自分の進む場所を選んだことは大切だ。ただ、それを世間に説明するときは違う言葉がいる。それを覚えさせるのも、教育の一つだと思う」


 自分の口から出たその言葉が、重く響いた。

 まるで父親としての責任を、オレ自身が認めてしまったように感じた。


 ——詩織が選ぶ未来を、オレは肯定する。

 だが同時に、その未来を守るための言葉を与えるのも、オレの役目なのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る