第26話:藤沢 沙良

 詩織は、すっかり啓介のことを「パパ」だと思うようになっていた。

 口に出すことはないけれど、その態度を見れば一目瞭然だった。


 亮との関係が、世間でいうような「父娘関係の悪化」というわけではなかった。

 ただ——明らかに詩織は、亮と啓介を比べるようになっていた。

 亮は仕事で疲れて帰ってきて、食卓で交わすのは常識的な言葉ばかり。

 「宿題は終わったか」

 「体調に気をつけろよ」

 その言葉には優しさがあるのに、どこか表面的だった。


 詩織はうなずきながらも、どこか遠い目をすることが増えた。

 ——パパなら、もっと違うことを言う。

 そう心の中でつぶやいているのだと、母親である私には手に取るように分かった。


 詩織が啓介に惹かれてしまう気持ちを、私は否定できなかった。

 彼はいつも印象に残る言葉をくれる。

 年1回、たった数時間であっても、その中で子どもを導き、未来を示してくれる。

 それは私にとっても同じだった。


 私は亮に尽くしてきた。

 家庭のことはすべて私に任せきりでも、亮を支えるのは妻である自分の役割だと思ってきた。

 だからこそ、亮のそばに寄り添い、夫婦の形を守り続けてきた。

 ——けれど、今になっても、頼ってしまうのは啓介だった。


 詩織のことを相談するのもいつも啓介。

 そして、男性として惹かれてしまうのも、結局のところ啓介なのだ。

 どれだけ亮に尽くしても、この事実だけは否定できなかった。


 そんなある日、詩織が私に言った。

 「渋谷にある高校―渋谷女学館に進学したい」


 胸がざわついた。

 「どうして?」と聞くと、彼女は目を逸らしながら言った。

 「パパの会社が近いから」


 その言葉に、私は言葉を失った。

 ——やっぱり。


 娘はもう完全に啓介を父親として見ている。

 そして彼の存在を理由に、人生の進路すら決めようとしている。


 「詩織……それは、困るわ」

 私は必死に言った。

 「進学先はもっと別の理由で選ぶべきよ。将来に役立つ学びとか、校風とか……」


 けれど、詩織は首を振った。

 「いや。私は渋谷の学校に行く。パパに少しでも近づきたいから。校風なんてどうでもいい。パパの話を聞く以上に、将来に役立つ学びなんてない」


 頑として譲らない彼女の強い目を見て、私は震えた。

 ——もう止められない。

 啓介の存在は、私や亮を超えて、詩織の人生そのものに深く刻まれてしまっている。

 そしてその頑迷さ。一度決めたらテコでも動かないところが啓介そっくりだ。


 私はその夜、また啓介に電話をかけてしまった。

 彼に頼らなければ、この不安を抱えて生きていけないのだ。

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