第24話:藤沢 沙良

 詩織が中学生になった最初の誕生日。

 啓介は、いつものように渋谷のレストランに席を予約してくれていた。

 もう彼女も中学生。小さい頃のように無邪気にぬいぐるみを抱えて喜ぶ年齢ではなくなっていたけれど、やはりこの「年に一度の誕生日会」は、彼女にとっても、そして私にとっても特別な時間だった。


 その少し前、詩織は私に言った。

 「今年のプレゼント、決めたよ。ノートパソコンが欲しい。……あのパパに伝えて」


 もうこの頃には、詩織と私との間で啓介は「パパ」と呼ばれていた。

 詩織は既に小学校高学年の頃から、スマホを使っていろいろ検索したり、学習アプリを使ったりしていたので、ノートパソコンを欲しがるのは時間の問題だったのだ。

 けれど、彼女がそう言い出した理由を聞いて、私は胸の奥にざわめきを覚えた。


 ——プログラミングを勉強したい。


 それが詩織の望みだった。

 大学時代に、啓介は彼の「乾き」を癒やすために女漁りをしないような場合は、PCを組み立てたり、そのPCを用いたプログラミングをするのが本当に好きだった。そしてそれに飽いたら、突然私に膝枕をしてくれと言ってしばらく思考の海に沈む、そういう人だった。


 詩織が13歳になる直前の金曜日の夜、渋谷レストランの個室に現れた啓介は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべながら大きな箱を抱えていた。

 「詩織ちゃん、誕生日おめでとう」

 箱を開けた瞬間、詩織の瞳が輝いた。そこには真新しいノートパソコン。


 「すごい! 本当にありがとう!」

 詩織は何度も頭を下げ、抱きかかえるように箱を胸に引き寄せた。


 食事が一段落すると、啓介は静かに言った。

 「詩織ちゃん。プログラミングを学びたいというのは、とてもいいことだと思う。だけどね……一つだけ忘れてほしくないことがあるんだ」


 詩織は首をかしげた。

 「なに?」


 「プログラムそのものは、時代によってどんどん変わっていくんだよ。今人気のある言語も、十年後には誰も使わなくなるかもしれない。でもね、大もとの考え方を数学的に理解していれば、どんな言語でも必ず対応できるんだよ」


 詩織は真剣に聞き入り、目を輝かせた。

 「……じゃあ、プログラミングより数学を勉強した方がいいってこと?」


 啓介は頷いた。

 「プログラミングに関心を持つのは良い事だよ。ただ、ITの世界で一番大切なのは、数学的にものを考える能力なんだ。プログラムは道具にすぎない。計算リソースの量に応じて、どういうプログラミングを採用するべきかを考えるのは、結局は数学的に物事を考える能力になる。つまり、大切なのは、その道具をどう使うかを論理的に考えられる頭脳なんだ」


 詩織は黙り込んでいたが、その横顔には確かな決意の色が浮かんでいた。

 ——この子は、啓介の魂を継承している。

 私の胸にそんな思いが広がった。

 もう北村の名前は私には浮かばない。この子は啓介の子なのだ。

 啓介が毎年かけがえのないメッセージを詩織に送り、詩織はそれを血肉にしているのだ。


 それからの詩織は、目に見えて数学に熱中していった。

 問題集を繰り返し解き、難しい定理にも果敢に挑戦する。弟たちが勉強でつまずいているのを横目に、彼女だけがまるで吸い寄せられるように数字の世界に没頭していった。


 私は心のどこかで恐れていた。

 ——もし亮が気づいたらどうしよう。

 けれど同時に、誇らしさも隠せなかった。

 彼女は間違いなく、広瀬啓介の娘なのだと。

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