第21話:藤沢 詩織

 小学生三年生から四年生にかけての頃だったと思う。

 毎年一度の誕生日に会える「オジサン」のことを、私は心の中でこっそり「パパ」と呼ぶようになっていた。


 その人といると、胸の奥が不思議と温かくなる。

 抱えている大きな包みを私に差し出して、「おめでとう」と笑ってくれる。

 優しい目で私を見守り、母と一緒にケーキのろうそくを吹き消してくれる。

 お父さんともお母さんとも違う。けれど、誰よりも「父親」に近いと子どもながらに感じていた。


 四年生の誕生日直前の金曜日夜、私はついにその人の名前を知った。

 レストランの個室でお祝いを終えたあと、私たちが帰ろうとしたとき、フロアマネージャーが丁寧に頭を下げたのだ。

 「広瀬様、いつもご利用ありがとうございます」


 ——広瀬。

 心に、その響きを刻んだ。


 そして、母が「啓介」と呼んでいるのを、私は何度か耳にしていた。

 ——広瀬啓介。

 それが「パパ」の名前だった。


 ある日のこと。

 お父さんが読み終えた新聞を、何気なく手に取った。

 文字だらけの記事はほとんど理解できなかったけれど、そこに「広瀬啓介」という名前を見つけた。

 記事には「日本のIT事業の将来を語る」と見出しがあり、専門的な内容らしかった。

 けれど子ども心に、「あ、パパが日本の未来のことを話してるんだ」と直感的に理解した。


 胸が高鳴り、その新聞を抱えて母のもとへ駆け寄った。

 「お母さん、見て! パパ……啓介さんの名前が出てるよ!」


 母は記事を受け取ると、ほんの一瞬、目を輝かせた。

 けれどすぐに表情を引き締め、私の手を握りながら小声で言った。

 「詩織、このことは……お母さんと詩織だけの秘密だよ。誰にも言ってはだめ。お父さんにも」


 その声は真剣で、私は思わず頷いた。

 ——また「秘密」。


 でもその時、心の中で芽生えていた感情を、もう誤魔化せなくなっていた。

 ——やっぱり、私の本当のお父さんはあのオジサンなんじゃないか。

 毎年会える、優しくて、誕生日を祝ってくれるあの人。

 「パパ」と呼びたくて仕方がない、広瀬啓介という人。


 私はその名前を胸に刻み込み、密かに確信を強めていった。

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