第18話:藤沢 沙良
詩織が三歳を迎える少し前、私は胸の奥が落ち着かなくて仕方がなかった。
——約束の日が来る。
あの夜、啓介と交わした「三歳になったら、年に一度会う」という約束が、現実のものとなろうとしていた。
金曜日の夜、新橋の高級レストラン。
普段なら子どもを連れてくるには場違いな空間だったが、啓介自身が予約して、子ども連れでも困らないように個室を用意してくれたと聞き、私はほっとした。
扉が開き、啓介が現れた。
カジュアルな姿の彼は、すっかり「世界的なビッグテック企業の幹部」としての風格をまとっていた。
雑誌や業界ニュースで名前を目にすることも多くなり、この日の夕方に東京ビッグサイトの展示会で基調講演を依頼されていると聞いたときには、誕生日会に来てもらうのはやはり難しいのかと諦めかけた。けれども、ビッグサイトからハイヤーを飛ばさせて、こうして約束を守って現れてくれたその姿に、胸が熱くなった。
「こんにちは、詩織ちゃん」
啓介は穏やかに微笑みながら、手に抱えていた包みを差し出した。
「動物が好きって聞いたからね。これ、誕生日のお祝いだよ」
包みを開けると、中から大きすぎず、けれどふわふわと抱き心地の良いクマのぬいぐるみが現れた。
「わぁ!」
詩織の顔がぱっと輝いた。
小さな腕でぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、声にならない笑い声をあげる。
私はその姿を見て、胸が詰まった。
——この子は本当に幸せそうに笑っている。
その笑顔を、啓介と一緒に見られるなんて。
食事が運ばれ、詩織には子ども向けのプレートが用意された。
彼女は上手にフォークを使いながら、ぬいぐるみを膝に乗せて食べていた。
啓介はそんな様子を、目を細めて静かに見守っていた。
彼の横顔は、父親そのものだった。
やがて、店員がバースデーケーキを運んできた。
小さなケーキに三本のろうそく。
「ふぅーってしようね」
私は詩織の肩を抱き、啓介も隣で身を寄せた。
三人で顔を寄せ、息を合わせて火を吹き消す。
ろうそくの灯が揺れ、消える。
その瞬間、私は涙がこみ上げそうになった。
——こうして、子どもの誕生日を一緒に祝えるなんて。
どんなに歪んだ関係であっても、このひとときだけは確かに「家族」だった。
「お誕生日おめでとう、詩織ちゃん」
啓介と私の声が重なった。
詩織はケーキを前に無邪気に笑い、膝の上のクマのぬいぐるみをもう一度抱きしめた。
その光景を見つめながら、私は胸の奥で静かに呟いた。
——ありがとう、啓くん。
この約束を守ってくれて、本当にありがとう。
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