第15話:藤沢 沙良

 病院からの帰り道、私はずっと震えていた。

 啓介と交わした「結婚に匹敵する秘密の約束」——その言葉だけが、かろうじて私を現実につなぎとめていた。

 けれど、これから向き合わなければならない相手は、夫の亮だった。


 夜、リビングで亮に向き合った。

 「……亮さん、実は……妊娠しているの。出産したいと思ってる」

 私の声は震えていた。嘘を混ぜ、真実を隠した告白。


 亮は驚いた顔をしたが、すぐに目を潤ませ、笑顔を浮かべた。

 「……本当か? 本当に……オレたちの子どもが?」

 その声は震えていた。

 「ようやく……ようやくオレにも父親になる日が来るのか……」


 その姿を見た瞬間、胸が張り裂けそうになった。

 ——亮は、疑っていない。自分の子だと信じて、心から喜んでいる。

 その純粋な喜びが、私にとっては何よりも大きな罪悪感となった。


 「ありがとう、沙良」

 亮は私の手を握りしめ、涙を浮かべていた。

 ——ごめんなさい。ごめんなさい。

 心の中で何度も繰り返した。

 けれど、啓介との約束があった。あの時、彼が「オレとお前の子だと思って育てろ」と言ってくれた。その言葉だけが、私を辛うじて支えていた。


 その後、会社には妊娠を伝え、出産時期が迫ると休養を認めてもらった。

 同僚の視線が怖かったが、業務に支障が出るほどの心配はなかった。むしろ「おめでとう」と言われるたびに胸が痛み、笑顔を作るのが精一杯だった。


 北村は何も言わずに必要な手続きを進めてくれた。


 そして、迎えた出産の日。

 私は無事に女の子を出産した。

 産声を聞いた瞬間、涙が止まらなかった。

 ——生まれてきてくれてありがとう。どんな罪から生まれたとしても、あなたは私の命だ。


 しかし娘の名前を決める段になり、亮は多忙を極めていた。

 出向人事で大手メーカーの販売代理店に片道切符で出され、現場対応に追われていた彼は、名付けについてじっくり考える心の余裕すら無くなっていた。

 「……ごめん、沙良。お前がいい名前を考えてくれるか……?」


 私はひどく胸が痛んだ。

 本来なら夫婦で何度も話し合って決めるべきことを、亮は「任せる」と言うしかない状況に追い込まれていたのだ。


 そこで私は——啓介に相談した。

 誰にも話せない秘密を共有している彼となら、この子の名前もまた一緒に考える意味があるように思えた。


 夜、二人で電話をしながら、私は必死に紙に候補を書き出した。

 「詩織」「美月」「陽菜」——三つの名前が並んだ。

 「……どれも、いい名前だと思う」啓介の声は穏やかだった。「でも『詩織』はどうだ? 文学が好きな沙良の娘に相応しい文字が入り優しさが感じられる」

 私は静かに頷いた。


 最終的にその三つの案を亮に見せた。

 彼は疲れた顔で資料を見直しながら、ふと手を止めて言った。

 「……『詩織』がいいな。響きが柔らかいし、落ち着いていて……」

 その瞬間、胸が締め付けられた。——亮は何も知らずに、啓介と私の間で温められた名前を選んだのだ。


 娘の名は「詩織」となった。


 出産の日に立ち会うことはできなかった亮に、私は病室で詩織を抱きながら報告した。

 「……詩織で手続きしました」

 彼は電話口で少し息を詰まらせ、「ありがとう」とだけ言った。


 ——詩織。

 あなたは私の罪であり、同時に救い。

 そして、私と啓介を結びつける「秘密の絆」でもあるのだ。

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