第13話:広瀬 啓介

 オレは待ち合わせの喫茶店のドアを押し、深呼吸してから中に入った。

 既に北村は来ていて、腕時計をちらりと見ながら落ち着き払った表情でコーヒーを口にしていた。初対面ではあったが、一目で分かった。——こいつは、かつてのオレに似ている。


 女を自分の乾きを癒やすための道具にすることに、何のためらいもない男。

 勝手気ままに振る舞い、頭の良さと弁舌で自分を正当化して生きてきた男。

 そう、沙良が惹かれてしまった理由は、結局のところ「昔のオレ」そのものだったのだ。


 その自覚に、胸が焼けるような痛みが走った。

 ——沙良をここまで追い詰めたのは、結局オレ自身の影じゃないか。


 「広瀬です」

 席に腰を下ろすと、オレは真正面から北村を見据えた。

 「単刀直入に聞きます。……あなたは沙良とどうするつもりですか?」


 北村は少しも動じなかった。逆に口元に薄い笑みを浮かべた。

 「どうするつもり、とは?」

 「妊娠しています。父親は、時期的にもあなたである可能性が高い」

 オレは一気に切り込んだ。


 その瞬間、北村の目がわずかに揺れた。だが次の言葉は冷ややかだった。

 「強制した覚えはありませんよ。沙良さんも同意していた。男と女の関係に過ぎないでしょう」


 血が逆流するような感覚に襲われた。

 ——やはり、そうだ。

 かつてオレが、沙良を「都合の良い女」として扱っていた頃と同じ理屈だ。

 オレは、自分の過去を北村の姿に見てしまい、吐き気に似た痛ましさを覚えた。


 「同意? 冗談は休み休みにして欲しいな」

 低く、怒気を含んだ声が自分の口から出た。

 「彼女はあなたに惹かれてしまった。だがそれはあなたの強さと狡さに呑まれたからでしょう。……そしてあなたはその心を弄んだ。都合の良い女としてね」


 北村は視線を逸らさなかった。

 「だからと言って、私は今の自分の家庭を捨てるつもりはありません。沙良さんと一緒になる気もない。あくまでも彼女が求めてきたから応じただけの話です」


 北村はどこまでも冷静だ。

 男の論理を振りかざすヤツに対して怒りの感情で対応しても逆効果だろう。

 「北村さん」

 声を低く抑え、だが一語一語を叩きつけるように言った。

 「あなたが家庭を捨てないのはあなたが決める事です。沙良と一緒にならないのももちろんあなたが決める事だ。……けれども、彼女は今、新たな命を抱えています」


 北村の眉が動いた。オレは畳みかけた。


 「今後、沙良が出産するとしても、あるいは中絶するような場合があっても、彼女のキャリアを損なわせるような真似は絶対にしないと今ここで私に約束してください。会社で彼女に不利になることがあれば——私は私ができるあらゆる術を用いてあなたの社会的立場を失わせる為に全力を尽くす用意があると申し上げておきましょう」

 「……分かりました」

 オレはビッグテックの日本法人において、既にそれなりのポジションを得ている。そのオレを完全に敵に回す愚は、北村は犯さないだろう。


 「そしてもう一つ。あなたは今後、その子どもに会う権利もありません。親権を主張する権利もありません。あなたはたった今、その権利を全て放棄したんです。自分の意思でね」


 北村は顔を強張らせ、沈黙した。

 こちらを睨みつけるように見ていたが、やがて静かに頷いた


 ——これ以上話をしても何も得られないな。

 言葉にしなくても、オレの圧は彼を押し潰していた。


 沈黙の中、オレはコーヒーを飲み干し、席を立った。

 背中に彼の視線を感じながら、店を出る。


 外の風が冷たく、火照った頭を冷やしてくれた。

 だが胸の痛みは消えなかった。

 沙良はまたしてもオレの影によって傷ついてしまったのだ。

 もうオレ自身が彼女を―そして新しい命を守るしかないのだ。

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