第11話:藤沢 沙良

 妊娠判定キットに浮かんだ二本の線を見た瞬間から、私の世界は崩壊していた。

 「どうしよう……どうしよう……」

 何度繰り返しても答えは見つからなかった。


 夫の亮には、絶対に言えない。

 北村にも、決して言えない。

 職場の同僚に相談できるはずもない。


 私は絶望的に孤独だった。

 友人と呼べる人間はいたはずなのに、この話を打ち明けられる相手は一人も思い浮かばなかった。

 ……いや、一人だけ、いた。


 啓介。


 私が心から愛し、そして失い、今でも忘れられない人。

 彼なら、この地獄のような状況から救ってくれるかもしれない。

 そう思った瞬間、私は震える手でスマホを掴み、番号を呼び出していた。


 コール音が鳴る間、涙が頬を伝った。

 「……出て、お願い……」

 嗚咽混じりにそう呟いたとき、彼の声が耳に届いた。


 「もしもし、沙良?」


 胸が詰まり、言葉にならなかった。

 「……啓くん……」

 声が震え、涙が溢れ出した。


 彼はもう投資銀行にはいなかった。

 世界的なビッグテック企業の日本法人に移り、誰もが羨むようなキャリアを築いていた。

 PLやBSを瞬時に読み解き、技術的な知識まで備え、コードすら書ける稀有な存在。瞬く間に評価を得て、出世街道を突き進んでいた。

 忙しいはずの彼に、私は泣きながら助けを求めた。


 「……お願い、会って。どうしても話さなきゃいけないの」


 後日、私たちは人目のない小さなカフェで向かい合っていた。

 私は俯き、カップを握りしめ、声を絞り出した。


 「……商社の直属の上司との間に、子どもが出来てしまった可能性があるの……」


 彼の瞳が一瞬、大きく揺れた。

 信じられない、という表情。

 私は耐えきれずに顔を覆った。


 「体の変調もあって……すぐに病院に行かなきゃいけないと思うの……産むのかどうか……」

 自分の声が震え、耳に届くたびに胸が締め付けられる。


 沈黙の後、啓介は絞り出すように言った。

 「……なんでそんな馬鹿なことを……沙良、お前が……」


 その瞬間、私の堰が切れた。


 「全部、啓くんが悪いんだよ!」

 声が裏返り、涙で視界が滲んだ。

 「私は啓くんを心から愛していた! ずっと信じていたの! いつか迎えに来てくれるって、ずっと……ずっと思ってたのに!」

 嗚咽が喉を詰まらせた。言葉が震え、何度も途切れた。

 「なのに……なんで私を捨てたの……どうして美来さんを選んだの……」


 彼の顔は、私がこれまで見たことのないほど険しく、そして苦しげだった。

 その表情を見た瞬間、私は悟った。

 ——この人は、私を責められない。

 私がここまで壊れてしまった原因を、彼自身が理解しているから。


 「啓くん……助けて……」

 最後にそう呟いたとき、私はもう自分を保てなかった。


 彼は深く息をつき、俯いた。

 そして顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。


 「……分かった。必ず何とかする」


 その言葉に、私は一瞬、救われるような気がした。

 でも同時に、その背中に背負わせてしまった重みを思い、胸が張り裂けそうになった。


 ——結婚してそれほど時間は経過していないにも関わらず、私はすでに破滅への道を歩んでいた。

 けれど、その道を止められるのは、やっぱり啓介しかいなかったのだ。

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