非常識の常識

北野美奈子

アンラッキーな日

 それどうしたの?

 彼はカフェの向かいの席に座っていたせいか、光線の加減でよく見えたのだと思う。今朝コンシーラーとファンデーションで苦労して隠したにもかかわらず、頬骨の上に出来た小さな青あざに気付かれてしまった。


 怒りに満ちた目で私を見つめ、仲が悪いって言っていたけれど、と夫と私の関係について探るような質問を始めた。


 喧嘩でもしたの?

 違うのよ、これは事故なの。

 信じている様子がない。被害者は皆そう言うのだと言わんばかりに数回首を振って見せた。私が煮え切らないのと場が気まずくなる事もあって、彼は夫と私の生活に踏み込んで来ることはあまりない。私の方もそういう話題は面白いとは思わないので極力避けている。


 俺は絶対に女に手をあげたりしない。サイテーだな。

 いいえ、違うの。

 そこから言葉が途切れた。夫は優しいいい人だし、暴力など振るわない。けれど、彼の機嫌を損ねずに上手く説明出来なくて言葉に詰まる。彼がイライラしている、どうにかなだめなければ。私はそう思った。


 痛いの?

 大丈夫よ。

 彼の指が頬に触れる。心配してくれているのは嬉しい。実際傷が少し痛かったので、触れられた時に思わず顔を歪めてしまった。


 許せない。

 誤解なの。違うのよ。

 彼はどうして旦那を庇うのかという顔をした。

 仕方がない。と私は思った。

 これはたまたま肘が当たっただけなの。事故なのよ。

 まだ少し解せないと言う顔をしているが、そうなのかと言ってくれた。


 ところがつい、夫は寝相が悪いからこういう事はたまにあるのだと、言わなくてもいいことを言ってしまった。


 彼は案の定、寝相って、一緒に寝てるのかと驚いているようだった。

 彼は急に態度を変えた。夫とは終わったって言っていなかったかとか、どういう関係なのかなどしつこく尋問を始めた。彼とは既婚者同士のサイトで知り合って以来、こういう話は避けて来た。彼はオープンな人で奥様とは不仲で家庭内別居をしていると言う。私は夫婦仲が実はよいのだという事を隠していた。なんとなく、その方がうまくいく気がしたからだ。


 寝室が一緒だからって、やましい事は何もないのだと何度も説明したが、私の話もろくに聞かずに彼は席を立って出ていった。


 家に帰ると珍しく夫が先に帰宅していた。

 振られちゃったの。と言うと、かわいそうに、と頭を撫でてくれた。またいい人が見つかるさ。

 ほっぺたあざになっちゃったね。

 夫が心配してくれたので、平気だと伝えた。それが原因で振られたとは言わずにおいた。寝返りを打つ時は気をつけてね、と言うと、夫は分かったと言った。





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