ナマケモノがいる、心の本屋さん[ほっと本舗]
今日もまた、上司に叱られた。
書類の小さなミス、何度も確認したはずなのに、やっぱり見落としていたらしい。
「何度言わせるんだ」と吐き捨てられた言葉が、頭の中でぐるぐると残っている。
帰り道、人混みの中を歩きながら、ため息がこぼれた。
自分なんてダメだな、と心が重く沈んでいく。
――そのとき、ふと路地の奥に目が止まった。
小さな木の看板に、丸っこい字でこう書かれている。
【心の本屋さん ほっと本舗】
そして、のんびり笑うナマケモノの絵。
どこかあたたかくて、私は足を止めた。
扉を開けると、やわらかな紙の匂いと、ランプの光に包まれた空間が広がる。
本棚には分厚い本がずらりと並び、その奥のカウンターでナマケモノの店主がゆったりと手を振っていた。
「いらっしゃいませぇ……ここではねぇ、“悪い感情”を本にして預けられるんですよぉ……」
その声は、ひなたのようにぽかぽかしていた。
私はノートに、今日の胸にたまった不安や怒りを書き出した。用紙はふわりと光り、本に変わる。
ナマケモノはそれを抱えるように受け取り、ゆっくり棚へとしまった。
「はいぃ……もう大丈夫ですよぉ……感情はここで、ぐっすり眠りますからぁ……」
そして、引き出しから小さな封筒を取り出す。
「代わりに、“いい感情”をお渡ししますねぇ……」
封筒の中には、温かい日差しの心地よさ、友達と笑い合ったときの軽さ、誰かに優しくされたときのあったかさ……そんな気持ちが、光の粒になって入っていた。
「これはぁ……あなたの胸に戻してあげてくださいねぇ……」
胸に光を抱くと、不思議と呼吸が深くなる。
嫌な気持ちは消えたわけではない。けれど、もう私を苦しめてはいなかった。
「人はねぇ……感情を交換しながら、少しずつ生きやすくなるんですよぉ……」
ナマケモノの声は、ゆるやかに心に染みていった。
帰り道、胸がほんのりあたたかい。
――また疲れたら、ほっと本舗に寄ってみよう。
そう思ったとき、ふと気づいた。
ほっと本舗は、特別な路地の奥だけじゃない。
私たちの心の中にもあって、紙に気持ちを書き出すだけでも、
誰かの優しい言葉を思い出すだけでも、
きっと“悪い感情”を預けて、“いい感情”を受け取ることができるのだ。
そう思ったら、少しだけ世界がやわらかく見えた。
ほねなぴ短編集 ― 1分でふしぎ、ひと息でほっこり ― ほねなぴ @honenapi
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