AIR-MOVE!!

 爆発的な衝撃で、一瞬、意識が明滅した。

 模擬戦で、クロスボールに向かって跳んだ時だった。


 ハッと気がついて、身を起こし、口に入った土を吐き出す。背中の汗が冷たい。耳鳴りがする。悲鳴、駆け寄る人の足音。その先に目を向け、息が止まる。


「兄、さん?」


 ゴールポストの前。

 うつ伏せに倒れた祐平兄さん。

 彼の苦痛と混乱に揺れる双眸が、自らの足に向いている。

 足が、全く動いていない。


 *


 俺の膝が祐平兄さんの腰に入ったらしい。下肢の完全麻痺も疑われた重症だったと聞いた。

 全日本選抜ナショナルトレセンの経験もした程の、才能を。


 祐平兄さんの輝きを、俺は──


 *


 なのに、兄さんの代わりにサッカーを楽しむなんて


 *


 それから三年が過ぎて、俺は高校生になった。


 祐平兄さんの実弟であり、幼馴染で同輩の涼太が遊びに来ている。彼は俺のリフティングを見ながら、神妙に頷いていた。


「よし、そろぼちフリースタイルやろうか」

 何度目かわからない提案だった。


「絶対やだ」


 つま先からふわり、浮かしたボール。その周囲で右足を一周させてから、ボールを地面に落とすことなく次の技につなげる。

 涼太は物欲しそうなため息をついた。


「もったいねぇ」


 彼のいうフリースタイル・フットボールは、サッカーで用いる技術を『魅せる』ことに特化したもので。

 確かに挑戦したい想いもある。

 でも、この狭い庭でずっと、独りでリフティングの技術のみを磨くだけでいい。それで満足するべきだと思う。


 だって、祐平兄さんはまだ、リハビリをしているのだから。人目につくところで楽しむのは憚られる。


「独りでやるのがいいんだよ」

「なんか半端じゃね?サッカーやめねぇって兄さんに言ったのに」

「べつに、やめてないじゃん」

「それが必要最低限って感じで、なんだかな」

「……祐平兄さん、まだボールも蹴れてないだろ」

「お前、メンドイ性格だよな」

「うるせーな」


 珍しく、涼太は呆れたようなため息をついた。縁側に仰向けに寝そべって天を仰いでいる。なんだか気が削がれた感じがして、俺はリフティングをやめた。


 春の終わりの風が、地に落ちたボールを少しだけ押した。


「……あ、そういやぁなんだけど」


 ガバッと涼太は身を起こして尋ねる。


「スパイクがダメになったんだった。買いに行くから下我澤しもがざわまで付き合ってくれ、今週日曜」

「えらい急じゃん。べつに問題ないけど」

「ありがとう、さすが」


 人の好さに絆されて、思わず口角が上がる。涼太が急な奴なのは昔からだ。昔から。だから、まさかこれが、策略だとは知る由もなかった。


 *


「お前こうでもしないと来ねぇし」

「いや嘘までつくこと?」


 混乱から思わず声が裏返る。


 駅前の広間の一角にいた、サッカーボールを持った連中。の前に俺を引き出して、お前はなんて言った?

 こいつが前話した、俺の幼馴染っす!じゃねーよ。

「よろしく!」と言ったら「聞いてませんが」とスカされた彼らの気持ちも考えてくれ。気まずいだろ。なんか俺のせいみたいだし。


 もう帰ろ。涼太は謝ってくるまで無視しよ。

 踵を返し駅に向かう。が、涼太に袖をつかまれた。


「逃げんな逃げんな、もうえぇだろ」


 真剣なのに面倒くさそうにも見える、表情と声音だった。初めて見せる涼太の態度に困惑を隠せない。


「はぁ?」

「兄さんがな、お前には言うなとは言ってたけど。はぁ、本当に面倒くせぇよ。翼も兄さんも、どっちも」

「……」

「えぇとな、翼。お前がサッカー楽しめなくなったのは自分のせいだって、兄さんは感じてるんよ」

「え?」

 これだけは聞き捨てならない。なぜ兄さんが俺に対して負い目を感じる必要がある?兄さんは被害者だろ。


「そんな、加害者は俺だろ」

「俺はな、兄さんの気持ちの話をしてるんだぞ」

「あ……」


 心臓が跳ね上がる。気づいてしまった。


 ────サッカーやめんなよ!

 茶化すように一回だけ、入院中の祐平兄さんに言われたことを思い出した。

 兄さんの本気のお願いだったとしたら。でも、俺はその言葉を今の今まで、自分を罰するために使ってきた。それに今、気づいてしまった。


 涼太は俺の腕を離す。足元に偶然落ちていたボールを足で掬い上げる。俺に対して、浮かせてよこす。

 咄嗟に、癖が出た。右足の指の付け根で、勢いを殺すように受け取る。そのまま足の上にボールを乗せっぱなしにする。


「とにかくなぁ、やりたいことやってくれよ。兄さんもそうしてる」


 もしかしたら。いや、もしかしなくても、涼太には、俺たちの板挟みで嫌な思いをさせてしまっていたのかもしれない。

 ずきりと心臓が重くなった。


「……わかった」

「ん」

「一回な。一回楽しむ。その後は少し考えさせてくれ」


 答えを聞くと、涼太はパッと晴れやかな表情になった。ここ最近で、一番幸せそうだった。


「それで充分だよ!」

「ぐぇ!?」


 そして、涼太は僕の背中を思い切り叩いて、フリースタイラー達の前に出させる。よろめいた拍子にボールが足から滑り落ちて、前へ走っていく。

「がんばれな」

 その小さな呼びかけが、ひりつく背中に染みこんでいく。


 腹が決まる感じがして、俺はボールを追いかけて歩みでた。


 *


 そして────


 1回だけやって本当に帰ってしまった。


 涼太は残念そうだったが「1回って約束だし、ごめんな今日」と送り出してくれた。

「ありがとう、考えとくよ」

 後ろ向きな気持ちに蓋をして、こう言うしかなかった。


 ただ、リフティングしてるときは心地よかった。俺の技術なら注目されるだろうことはわかってた。才能は自覚している。

 だから、終わった後。いつの間にか俺のリフティングを鑑賞していたみんなからの拍手と歓声に少しだけうれしく思って……あの日の祐平兄さんの動かない足が脳裏をよぎって。


 これ以上

 ここにいたら死にたくなると思った。


 祐平兄さんと俺の気持ちは別物だ。

 兄さんは俺を既に、というか最初から赦していた。兄さんは、俺が罪悪感を抱えて表に出ない事を望んじゃいない。そんなこと、分かってる。


 でも、俺の気持ちには関係ない。兄さんと涼太を思って踏み出した足に、俺の気持ちがついてこなかった。


 ……だから俺は、俺に赦されるしかないのだろうと思った。

 自己満足の贖罪だろうが、いつの日か、俺が、俺を赦すしかない。


 *


 最寄り駅に降りたとき、着信があった。

 その名前を見たら、胃が跳ね上がって息が抜けた。


『興梠 祐平』


 祐平兄さんからだ。

 数秒ためらって、雲一つない空を仰ぐ。キュッと目を閉じる。去り行く電車の音と入れ替わるように、着信音が迫り来るようで。

 恐る恐る、青の通話ボタンをタップした。


「もしもし……」

「翼、久しぶり。といっても先月少し話したけど」

「ただまあ、サシで話すのは……いつぶりだろうな」

「確かにわかんねえ、いつぶりだ!?あはは!」


 そして間髪入れずに裕平兄さんは切り出した。


「そういやさ、涼太から今日のこと聞いたよ。動画も送られてきた!フリースタイル、参加できたんだな。というか、本当に上手くなったな、リフティング」


 なんとなく涼太が絡んでいる予感はしていた。


「まあ、ね」

「それでどうだった?楽しかった?」

「楽しかった、けど…………」

「けど?」


 自然と出かけた言葉を飲み込んだ。

 祐平兄さんの怪我が頭をよぎってしまって……。なんて、言えるわけがない。


「いやごめん間違えた。楽しかった」

「おい、オープンマインド!殻を開け!」

「なに!なにごと!?」


 突然の大声で、思わずスピーカーから耳を遠ざけた。


「憶えてるだろ、小学生のサッカーの合同合宿。そんときの」

「久々すぎてパッと分かんねえよ……」

「すまんすまん」


 俺は元来内気で、合宿中も単独行動を好んでいた。相部屋では独りで読書をしていた。今思うと、チームスポーツの合宿でやる事じゃなかったなと。そこを気にした兄さんと相部屋メンバー総勢5名に無理やり外に連れ出されて遊んだのだった。

 最初はしぶしぶだったが、いつのまにか、めちゃくちゃ楽しんでいた。


「ともかく!翼。心閉ざしたろ今。開け」


 連れ出された時から、それ以降も度々、全員からつきまとう様に、耳に胼胝タコができるほど連呼されたのが『オープンマインド!殻を開け!』だった。今となっては誰が言い出したかもわからない。

 そうして仲間の輪に巻き込んでくれた祐平兄さんには感謝しきれない。自分が心細くなかったのは。兄さんの知らない場所でも、それなりに友達できたのは。

 巡り巡って、きっと、兄さんのおかげだった。


 そして、嘘が下手なのは昔からだが、ここまで見透かしてくるのは祐平兄さんと涼太だけだ。

 それと、言葉の懐かしさと、兄さんの変わらない頼もしさのせいだろうか。蓋をした気持ちがまた溢れ出してくる。


「ごめん…………あのさ、気分悪くしないで聞いてほしいんだけど」

「うん」

「兄さんの怪我、思い出した」

「……うん」

「そしたら、もう気持ちがついてこなくなった。これ以上は続ける気にならなくて」

「俺は気にしてないよ。お前が悪いなんて微塵も思わなかった。それは分かったうえで?」

「うん、申し訳ないけど…………」


 ホームに止まらない特急電車が通り過ぎた。

 すさぶ風に背を向けて、沈黙に耳を傾けつづける。


「…………分かった!」


 また、大きな声だった。もう驚かなかった。


「え、何?」

「お前、今から俺のリハビリに付き合えよ」

「あ、え、今!?」

「駅向かってるから、ちょうどいい」

「今!?向かってるの?え???」


 これは驚く、というか戸惑う。なんで?


「……俺を避けていたのは分かってる。別に無理強いはしたくなかったんだけど、俺も腹を決めたってことだよ。そこから逃げるなよ?」


 うっ、と胸が痛んだ。確かに俺は祐平兄さんに合わせる顔が無いような気がいつもしていて。それで避けていたんだ。でも、どうして兄さんの気が変わったのか。思い当たるのは涼太の存在くらいだが……。


「分かった……でも、なんでリハビリ?」

「お互い、その方が都合がいいと思ってな」


 ──西口のロータリーに、松葉杖をついている人影が見えた。

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