十二告解―timeremit―
Xii
人気のない廃ビルの屋上だった。扉の鍵は壊れていて、錆びた金属と湿気った匂いが鼻を刺す。水たまりに映る、詰襟の学生服を着た少年の像を踏み――雨? ポツリと鼻先をかすめた雫の元を見上げて、僕は異変に気づいた。
夜空が、割れている。
雲の裂け目の向こうに、石造りの尖塔が霞む。ひび割れた穴の広がりは止まることなく、月光を反射した空の破片が、雨に紛れて流星のように降り注いでいた。
もう、時は残されていない。
十二の名を持つ時の城は、静かに輪郭を失おうとしている。
僕は正面に向き直って、ビルの淵へと足を進めた。
「きみで最後、か」
濡れた鉄柵の向こう側に、白い少女の背中はあった。
腰まで垂れた純白の髪が、歓楽街のネオンに染まりながら波打ち、風の形を宙に描く。
まるで似ていない、僕の妹。
「
「それが『
淡々と、彼女は答えた。
僕の日常を破壊しつくした、『双魚宮』の使徒バキエル。
誰を責めることもなく、何を憎むこともなく、彼女の言葉はいつも澄んでいた。
下から吹き上げるビル風をはらんで、バキエルの衣服が膨らむ。そのシルエットが翼のように見えた。天使のようだと思った。初めて姿を見た時も。初めて名前を聞いた時も。そして今も。
純氷の瞳は、喧騒も届かない高みから、雑然とした人の営みを見下ろしていた。
「
「まあ、つまらなくはなかったよ。きみは?」
白い――まっさらな少女が、振り返る。
バキエルは微笑んでいた。
「あのね、私には何もないの。忘れてしまいたいと願って、すべて忘れてしまったから」
効率主義の彼女らしからぬ綻びに、僕は息を呑んだ。
「時の城に囚われたことも。あなたを手伝ったことも。どうしてなんて聞かれたってわからない。始まりの想いは擦り切れて、一欠片さえも残っていないの」
無垢な少女は、迷わなかった。
いつでも。
彼女は望んで目を閉ざした。
今も。
「本当に怖いのは、終わりの先を知ること。何も、覚えていないけれど。これだけ人に溢れた世界だから、手を伸ばせば届く距離に誰かはいたんだと思う」
彼女の手は、鉄柵を握って離さない。
「窮屈に結ばれた縁の意味を、わからないまま振り解いた。たぶん、きっと。そんな、私にとっては他人事のようにしか語れない、とっくに終わってしまった昔話。けれど誰かにとっては、覚めることのない悪夢にも似た、これからの話」
ひび割れた空の破片は、ひとつひとつが曇りのない鏡のように澄んでいた。様々な角度から少女を映し、これだけ無数に降り注いでいるのに、地上に落ちる音は聞こえてこない。まるで世界の底が抜けてしまったかのようだ。
「それでも私は、何ひとつ悔いてはいないの。悔いることができないの。今でもまだ。今しかないから永遠に。だから、圭人」
すっかり耳馴染んだ声が、柔らかに僕の名を呼ぶ。
「私がいなくなったら、ぜんぶ忘れてくれる?」
何もないと、彼女は言う。けれど『十三番目』が喰らうのは――古びたメダルにしか見えない懐中時計もどきを握り、僕は今ここに立ち会う意味を理解した。悔悟の情。まだ輪郭のないその感情を、教えるのか、僕が。
「覚えておくよ。何もかも」
「そう言うと思った」
柵ごしに身を乗り出したバキエルの濡れた両手が、僕の頬を撫でた。
「笑って。圭人。あなたと私には何の関係もない。だから、あなただけは」
声には出さずに唇を動かして、本当の名前も年齢も容姿もわからない少女の影が告げる。
"どうか――して"
彼女の目に映る僕は、どんな表情を浮かべたのか。
「そう。そういうこと。ようやく、わかった」
凪いだ湖面のような少女の顔が、その一瞬、ぐしゃりと泣きだしそうに、歪んだ。
「私、――
ね
だ
子
い
悪
」
ゆっくりと全身を後ろに倒し、背中から飛び立っていく彼女は、やっぱり翼の生えた天使のようだ――直後、カチリと
これが、彼女の『最終告解』。
手のひらの上で、古びたメダルが口を開く。空白の文字盤は埋まり、彼方の尖塔から目覚めの鐘が鳴り響く。
割れる。
空が割れる。
世界が割れる。
彼女の声が割れる。
彼女を想う僕の心ごと、ひび割れて、砕け散る。
「ああ、本当にね」
抜けてしまった世界の底へ、彼女が墜ちる音は聞こえなかった。
夢のように崩れ去る世界の中で、雨露に濡れた指先が遺した雫が、僕の頬を伝い落ちていく。
女神の午睡が終わる。
取り残された時間が追いつく。
彼女という頸木を失って、あるべき時空に弾き出されるまでの、ほんのひととき。彫像のように美しい唇が形作った最期の言葉が、鐘の音にまぎれて僕の耳奥にいつまでも響いていた。
バキエルの消滅と同時に、彼女が『
きみをずっと、ゆるさない。
これは僕が、決して出会うことのない少女の終わりと始まりを見届けるまでの物語だ。
〇
初めは、コインが落ちているのかと思ったんだ。
隣町の図書館に本を返しにいった、その帰りだった。新刊の棚に目ぼしいものも見つからず、これからの一週間どうやって暇を潰そうか悩んでいた。時間を無駄にする贅沢を、どう味わおうかと。
僕の趣味は、
深入りしてくる友人はゼロ。担任すら出席をとり忘れる、目立たない生徒。それが高校での僕、
失礼。あいつを見つけた日の話だったね。
嫌な顔しないで、もうすこし
スニーカーを覆うほどの草が茂った河川敷で、沈みかけた夕陽を何かが反射した。気づいた瞬間は迷わなかった。無駄足になっても望むところだと、僕はひとり雑草を踏み分けていった。
緑の海の底で、ソレは眠っていた。あるいは狩りの最中の猛獣のように、ジッと息を潜めて、獲物を待っていた。くすんだ金属の塊は、コインにしては大ぶりで、すこしばかり精巧すぎた。
伸ばしかけた指が、一瞬ためらったのを覚えている。錆と土にまみれた金属が小汚く見えたからとか、静電気に怯えたからとか、そういう具体的な理由じゃなくて、喩えるなら……飛び込み台の上だ。あと一歩で落ちるという緊迫感。大げさに言えば、崖の淵に立ったときのような高揚と恐怖を、その一瞬に感じていた。
僕は迷い、そして選んだ。
指の一本一本に走る神経を研ぎ澄まさせて、そいつを摘み上げた。手の甲をくすぐる草の葉と、爪の間へ忍び込む湿った土の感触、指の腹に伝わる凍えた金属の冷たさ――ゴクリと飲み込んだ唾の音。
直後、僕を支配する退屈に、強烈な刺突が加えられた。
ひび割れる。砕け散る。
ぼうぜんと立ち尽くした僕の手のひらの上で、くすんだ真鍮の蓋が、ひとりでに開いた――懐中時計のようだ、と思う暇もなく、耳もとで唸りだす歯車の機構音。その途端、まっさらな文字盤の上で、存在しない針の影が、猛スピードで回りだした。実体のない影だけが、文字のない盤面を、右へ左へ、狂った方位磁針のように、踊って、踊って、踊って……。
風に巻き上げられた草の香りが、鼻腔をくすぐった。はたと気づいたときには、僕の目の前には、何の変哲もない河川敷が広がっていた。
だけど、現実に帰っても、まだ僕の右手は固く握りしめられたまま――硬質な手触りを感じながら、おそるおそる開いた手の中には、素知らぬ顔で『古びたメダル』がおさまっていた。
背面には、打ち出されたローマ数字の
僕は、どこか夢見心地のまま、外套のポケットの中へと、針も文字盤もない懐中時計もどきを滑り込ませた。
これが、最初の分岐点。
一
白昼夢のような出来事を現実だと確信したのは、二週間後――彼女と出会った日だ。
朝のけだるい空気に包まれた最寄り駅のホーム。通勤通学客で賑わう一角で、僕は制服のポケットの底の『古びたメダル』を握っていた。
通過列車のアナウンスが流れた。
背広姿の男の残像が、不意に視界をよぎった。
慌ただしく人をかき分け、黄色い点字ブロックの先を踏み切った背中を、横目で追った――次の瞬間。
世界が止まった。
男の身体は、線路上に飛び出した前傾姿勢のまま宙に浮かんでいた。まるで磔にされたかのように。
厳密には、止まっていたわけではなかった。瞬きするごとに、超難問の間違い探しのような遅々とした速度で、男の身体は前に進み、ひきつった顔の車掌を乗せた先頭車両もまた迫りつづけていた。
あまりにもゆっくりと、気の遠くなるような時間をかけて――。
誰も動かない。何も聴こえない。
駅員の警告。甲高いブレーキ音。群衆のどよめき。
……すべてが、ぱったりと止んでいた。
静止画のような光景に、僕は釘付けになった。
じんわりと汗ばみ、かろうじて浅く息を吸う。
凍りついた世界の中心に、白い少女が見えた。
僕と同年代の見た目で、透きとおった純白の髪を背に垂らし、真っ白いワンピースを着た、彫像みたいに整った顔の女の子。線路上に浮かぶ男の後ろに、彼女は何の前触れもなくふらりと現れた。
少女の手が、二度、優しく男の肩を叩いた。
――その途端、慣れ親しんだ速さで時は動き出した。
少女の身体をすり抜け、勢いよく電車が駆け抜ける。
減速が間に合うはずもない。
時速百キロを超える快速列車が、接触した男の肉体を弾け飛ばした。
ヒュッと、僕の喉奥から、音が漏れた。
失われていた音が戻り、一帯が阿鼻叫喚の渦に巻き込まれるよりも、ほんの一瞬早く、だ。
――白い少女の顔が、駅のホームへと向けられた。
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