CODE:110 ― 鳴動する海 ―


 伊豆諸島近海。


  JTTJapan Telegraph and Telephone子会社エンジニアの田島は、海底ケーブルメンテナンス用の小型船の上で欠伸を噛み殺す。

 昨日深夜に切断アラームが鳴ったため、日の出後すぐに駆り出されたのだ。


 弊社の勤勉さはひょっとしたら前職海上自衛隊以上かもな、と田島は心中で皮肉る。


 海底ケーブルは超重要インフラではあるが、だからこそバックアップが幾重にも存在する。事故で1本切断されたところですぐに緊急事態になるわけではない。

 鮫が食いちぎるのは日常茶飯事で、田島はたまにフカヒレを貪って鬱憤を晴らすくらいだ。


 だから今日も定時9:00業務開始でまったく問題なかったが、親会社から出向してきた上司がポイント稼ぎの時間外を命じたのだ。

 「お前が自分でやれ」と喉元まで出かかった言葉を、給料を人質に取られている田島は泣く泣く飲み込んだ。フカヒレ代を稼がなくては。


 冷静に考えると、前職より遥かに安全でマシな仕事だ。鮫は銃を持っていないし、齧るのは人ではない。――今のところは。




 船がポイントに到着した。田島は潜水修理作業用の重たい装備を装着していくが、そこで小さな事故が起こる。


 ハーネスが千切れたのだ。


 用心深い彼は何度も強く引っ張り安全性を確認するが、その行程中に起きた事故だ。酸素ボンベが落下し、大きな金属音が響きわたる。あと数センチずれていれば足を大怪我していた。

 田島は舌打ちをして、思わず悪態をつく。


「経費削減の使い回しで労災発生させる……愚の骨頂だ」

「えぇ! 10年ものとはいえ、ふつうそこ壊れます? 凶兆ですよ。潜るのやめません?」


 Z世代の後輩バディ、片山が冗談交じりに提案する。怠け癖があるが、それなりに優秀なので重宝していた。


「じゃあ、お前が所長にそう言えよ」


 片山は返事をせず、無言で予備の装備を差し出した。


「さぁ無駄口叩いてないで、仕事しましょう!」

「お前が始めたんだろうが……念のため、緊急用の水上バイク下ろしとけ」


 田島はゲンを担ぐことはしないが、自分の勘は信じていた。

 嫌な予感がする。だがやることはひとつ。備えて自分の仕事をするだけだ。







ゴボ






ゴボ

ゴボ

ゴボ






 静寂が沈殿した海底。

 切断されたケーブル付近。

 正体不明の構造物から信号が発信される。


Target detected. 目標検知JTT ship.」

『撃墜せよ』

「Confirmed.Link secure命令認証.Initiating attack sequence.攻撃シークエンス開始

『敵性言語を使用せざるを無い状況。―――それが我々の戦う理由だ』


 構造物のAIに通信で指示した人物はそう呟いて静かに目を閉じた。





 ワイヤーを伝ってポイントへ潜っていくほどに、田島の中に違和感が膨らんでいった。


 何かがおかしい。でも何が?


 田島が答えにたどり着くその瞬間、閃光が走る。


 比喩ではない。


 太陽かと見紛うほどの光源が海底の闇を切り裂くように照らしてくる。違和感の正体は明るさだった! 


 濁度に合わない散乱光にもっと早く気づくべきだった、と田島は後悔する。

 光源はのようで、危機そのものが仁王立ちしているように見えたからだ。


 が、動揺している暇はない。轟音と大量の気泡を伴い、光源から“何か”が猛スピードで迫っていた。


 衝突する!?


 田島は瞬時に判断し、プールの壁よろしく、硬直している片山の背中を両足で思いきり蹴る。二人の間に3メートルほどの空間ができた。


 次の瞬間、“何か”がその空間を切り裂く。


 水流に身体を持っていかれそうになりながらも、田島の鍛えられた動体視力はその形状を捉えた。


 あ、ありえない。


 田島の記憶から導き出された結論を感情が否定する。

 それでもなんとか冷静さを保ち、ハンドサインで片山に急浮上するように指示した。




 水面に顔を出した田島の視界に、片山の呆然とした表情が入り反射的に怒鳴る。


「ボーっとするな!!! 船に戻れ!!!」

「……先輩……アレ」


 片山が震えながら指さした方向に田島は振り返る。そこには炎上し沈没しようとするメンテナンス船があった。

 非現実的な光景を前に、田島の有事思考が叩き起こされる。


 やはり、あれは だったのだ。


 そこから、田島の行動は無駄がない。水上バイクに飛び乗り、スムーズにエンジンをかける。さらに片山を片手で拾い上げるやいなや、フルスロットルで現場水域から離脱を図る。


「通信機!」


 ようやく我を取り戻した片山は、その一言だけで田島の意思をくみ取る。

 備え付けの通信機を慣れない手つきで操作すると、マイクを彼の口元に構えた。


「コード110! これは訓練ではない! 繰り返す。 コード110!」


 年に一度。訓練でしか聞かない“テロ発生”を意味するコードを、まさか自分が宣言することになるとは。


 無線機が発する警告音に共鳴するように、田島の心音は高まっていたが、「自分の仕事をするだけ」と自らを落ち着かせていた。





 永田町・内閣危機管理センター。

 地下の会議室に、防衛・通信・内閣官房の担当官らが集められていた。照明は落とされ、壁面スクリーンに映るのは、断線箇所を示す赤いマーカーだけだ。


「切断されたケーブルは3本。影響範囲は限定的ですが、そのうちの1本のメンテナンスに向かった民間船が正体不明の人工物に撃墜されました」


 通信庁の技監の“撃墜”という言葉に一同が息を呑む。画面が切り替わり、海底ケーブル網を示す日本列島の地図に無数の線が走った。


「犯行声明が届きテロと断定。“黎武会れいぶかい”と名乗る組織です。声明によれば、日本に接続する主要海底回線の九割を掌握。随時切断可能と明言しています」


 ざわめきが起こる。防衛副大臣が身を乗り出した。


「全切断の場合、どの程度の影響が出る?」


 資料をめくる音が重なる。


「通信トラフィックの八割が即座に途絶。SNSやクラウドは全滅。株式市場は開けず、電子決済は全面停止。国際市場から完全に孤立します。交通・物流・医療も混乱は必至」


 一同の顔色がどんどん悪くなっていく。


「重要回線は政府専用衛星に代替可。しかし処理速度は現行の一割以下。経済被害は初動三日でGDPの二%。一週間で国家予算の一割規模に達する見込みです」


 深海のような静寂。内閣官房長官が苦渋に満ちた表情で呟く。


「……つまり、“鎖国”時代に逆戻りか」


 誰も返す言葉がない。

 誰かの喉が鳴る音がやけに大きく響いた。

 官僚の若手が怯えた声で問う。


「彼らの目的は……?」


 事務次官が紙片を持ち上げた。墨字で一行。


『黎明を迎え交渉の場を設けよ』



◇ 



 JTT本社は蜂の巣をつついた騒ぎだった。

 だが、ただ騒いでいるだけだとグローバルビジネス部の若手エリートの一人以下“甲”とするは嘆息する。


 平和ボケしたこの国のいち民間企業に、対応できるわけない。なにしろ“前例がない”。

 会議室では部長以上が雁首揃えて、自社責任回避の空虚なロジックを組み上げている。誰も外を、そして海を見ていない。


 甲は細い指でスマホを操作する。から作戦実行の報が入ったのは2時間ほど前。しかし、未だに会社の方針が出ていない。指揮系統が機能不全。インフラ会社として不適格だ。


 甲はSNSを開く。光る画面に、自らの使命が浮かび上がった。


 旭日旗のアイコン。


『日本の誇りを取り戻す』


 甲の頬がわずかに熱を帯び指は止まらない。スクロールと共に意識が深く沈んでいく。まるで海底ケーブルを目指しているように。


『諸悪の根源はグローバリズム。我々の手で病原を絶ち、大和魂を呼び起こすためにはいかなる犠牲も厭わない』


 JTTの業務で甲は痛感していた。その病理を。己の利益追求にのみに特化する人間の浅はかさを。

 だが、その浅はかさに甲は嘲りとともに感謝の念も少しだけ抱いていた。おかげで事が円滑に運んだからだ。


 身なりを小奇麗にし人懐っこい笑顔を絶やさず、酒席に付き合ってお酌するだけで、最重要機密である他社を含めた海底ケーブルの詳細配置図に辿り着いた。猫なで声で「興味があるんです!」というだけでよかった。


 彼らには守るべき矜持がないのだ。ただ、給与で餌付けされた家畜に過ぎなかった。


 あとは簡単だ。甲がもって生まれた才能、瞬間記憶能力で覚えればいい。一度見れば忘れることはない。甲は幼少期、この能力を恨んでいた。周りの人間からの羨望・奇異・嫉妬という醜い視線ばかり向けられて迫害されたからだ。

 それも敗戦後に強いられた同質的教育によるものだと、甲は同志から学んだ。


 しかし、今はこの能力に感謝している。この時のために生まれてきたとさえ思っていた。


 会議室のドアが乱暴に開けられて、甲の意識がスマホから離れる。


 常務がフロア中に響き渡る声で宣言した。


「政府主導の緊急対策本部に技術顧問として我が社の人間を派遣することが決まった。海底ケーブルのチーム。あとはサポートとして志願者を1名。ハードな業務になるが、いい経験になると思うぞ」


 この期に及んで重役がそんな呑気な事を言っている事に甲は嘆息した。だが、同時に心が躍る。の想定通りに事が進んでいる!

 案の定、家畜達は顔を見合わせてお互いに牽制し合う。甲は冷めた目で観察した。ここで立候補する気骨のある人間はこの会社にはいない。


 甲はすっと一歩前に出て、まっすぐ手を上げる。儀式を思わせるその厳かさに、一瞬だけ空気が張りつめた。


 上層部の人間は戸惑いの表情を浮かべる。決して、甲をスパイだと疑っているわけではないのは、向けられる視線の質で甲は見抜く。いつものアレだ、と。


 部長が常務に耳打ちをする。彼こそが機密情報を甲にもらした張本人だ。甲は瞬間記憶能力も幸いして仕事がよくでき愛嬌もあるので彼から絶大な信頼を得ていた。


 常務は頷き神妙な面持ちで自らに言い聞かせるように言う。


「では頼んだぞ。日本の命運は君たちにかかっている」


 甲は常務の視線を真正面から受け止めて、しっかりと頷いた。奇しくも、その言葉は的を得ていたからだ。


 今や、この国は獅子身中の虫を抱え、その動脈は黎武会れいぶかいに握られていた。



 ――それでも




 希望ケーブルを繋ぐため、命懸けで職務を全うする者達がいる!

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