おにあいのふたり 俺と私の幸福な終焉へと

 薄曇りの空から、ぼやけた月が地上を眺める暗灰色の夜。獣すら声を殺す閑静な住宅街はどこも似たような家並みばかりで、今のもったりとした夜風とは関係なく息が詰まりそうだった。

 通り雨の痕跡を殊更ひけらかすように湿気を帯びた夜の空気に流されるように、俺こと宮園みやぞのあきら欠伸あくびを噛み潰しながら街中を歩き回っていた。目的はあるが、目指す場所があるわけではない。しかし、なんというか。


「夜はずいぶん静かになっちまったな……」

 濡れた空気をぼんやり光らせる街灯は揃いも揃って素知らぬ顔をして、俺の声に答えるものは何もない。当たり前のこと訊くなってか──思わず漏れた乾いた笑いが、質量を持った空気に容易く飲み込まれた。


 俺たちの住む磋蓬さほう町には、ふたつの特徴がある。ひとつは、意外に風光明媚というか、観光スポットになるところが割とあるところだ。春になれば市街地を流れる大きな川を散った桜が流れ出し、夏になれば海水浴客でそこそこ賑わうし、どこらまでも伸びやかな水平線の青は見るものの心を旅へと誘う。秋になれば市民公園で全国の名所にも数えられるような紅葉を見られる。冬は……まぁ珍しくもないだろうが雪景色があるし、俺は家に籠っちまうが、名物くらい何かあるんだろ。

 だがそれだと、この静けさは説明つかない。以前は催されていた夏祭りも、ここ数年はすっかりご無沙汰だ。せっかく人気イベントだったのに、勿体ないことで。で、その理由というのがこの街のもうひとつの特徴──恐らくふたりの殺人鬼が街の中にいるってところだ。


 磋蓬町にいる殺人鬼。

 どうしてふたりだとされているかといえば、手口があまりに違いすぎるから。

 片方はボウイナイフを使って被害者の全身を甚振いたぶって、最後にとどめを刺す手口だ。最初に手足を切りつけて身動きをとれないようにしてから襲うらしく、こいつは俺が子どもの頃から野放しにされている。まったく、警察もせめて凶器の特定くらいは急いでほしいもんだ。

 それでもって、もう片方はそもそも人間なのかどうかさえ怪しい。というのも、そっちに狙われた犠牲者はまず人間の形で帰ってこないからだ。超大型の動物にでも食い荒らされたような有り様で、身元の特定すら難しいとか。だが、被害者の身元がわかるものが毎回わかりやすい場所に置かれているところから、という認識で広まっている。


 そんなこんなでわが愛すべき磋蓬町は、たったふたりの殺人鬼によって、少なくとも日が暮れた後は日本のどこよりも明日が保証されない地域となってしまったわけである。

「まったく、迷惑だよなぁ。殺人鬼なんてさ」

 しかもひとりいたって持て余すところをふたりである。正確にはひとりと「恐らくひとり」。本当に困ったもんである。

 ぼやけた夜闇が、街灯で白くぼやかされている。決して狭くもない道路を歩いているのは俺ひとり。ゴーストタウンにでも迷いこんだ心地になりながら、俺は蒼白い月を見上げてひとり歩く。

 音のない闇は心地いいが、長居していると何やら命でも持っているように感じられてくる。背後の闇がいつの間にか巨大な一匹の獣になって、今にも俺をその牙で引き裂いてしまいそうな、そんな殺気を滲ませた気配。夜風がやけに生暖かいのも、実は牙を剥いた獣の吐息なんだとしたら納得だ。どこかの家に植わった木が警告でもするように葉を揺らす音を聞きながら、益体のない妄想を笑っていたとき。


 ──────。

 闇が、深まった。


 はっきりと。

 明らかに。

 宣言でもするように。

 間違いなく。

 間違いようもなく。

 現実逃避すら許さないほど。

 認めないことを許さないと言いたげに。

 自らの存在を高らかに主張するように。

 ここにいるぞと叫ぶように。


 闇が、一段と深まる。

 心臓が、ひとつ跳ねる。

 肺が締まり、喉が絞られる。

 目が自然と見開かれ、呼吸が浅くなる。

 これは本能的な反応だ。

 何かを見たとかではない。

 何かを聞いたとかでもない。

 ただ、と、本能が察した。


 逸る気持ちを抑えながら、その何の変哲もない曲がり角を覗き込む。

 味気ないブロック塀と道路標識、供えただけで満足したように放置された献花があるだけの、味も素っ気もない道路。そこから更に曲がっていく角に、スカートの白い裾が揺らめいた。

 誘蛾灯というのはこんな感じか。

 或いは生き餌とでも呼ぶべきか。

 思考が巡るがそれよりも確かに。

 心臓がひとつ強く大きく跳ねた。


 こいつだ。

 俺の心を騒がせたのは、こいつだ。

 赫い確信が俺を衝き動かす。

 黒い渇望が俺の足を急かす。


 騒ぐ心のままに、夜道を走る。

 獣のような息遣いが自分のものだと気付いても、もはや止まることはできず。

 ただ走る──疾る。

 深まる夜の闇の中、走って辿り着いた廃倉庫。息を切らして覗き込んだそこは、地獄絵すらも生ぬるく感じるような血溜まりと化していて。


 血溜まりと、ひとりの少女。

 甘美なまでに醜悪で、目を背けたくなるほど美しいコントラストだった。


 胸の奥まで濡らし、蜷局とぐろを巻いて締めつける湿った熱帯夜。静かに心身を侵す夜闇のなか、急き立てられるように夜の街を歩いていた俺は、扇情的な“白”を追いかけるうち────


 に、至っていた。


 錆びた屋根が所々崩落した廃倉庫。街灯の明かりも届かず、蒼白く曖昧な月明かりだけが視界を形作る空間でまず目に入ったのは、最初からそうあったように捨て置かれたフォークリフトの数々。周囲にいくつもの鉄骨が乱雑に倒れ、他にも外から持ち込まれたらしきゴミやら何やらが転がっていた。

 そして月明かりの差し込む床には、赤黒いペンキがぶち撒けられていた。尤も、ただのペンキでないことはその鉄臭さで明らかだが。


 血だ。

 眼前に広がっているのは、毒々しいまでに鮮やかな血溜まりだった。

 目を背けたり叫び声をあげるような野暮はしない──常識的に考えて、ホストの前で料理に鼻をつまむゲストなんて無作法にも程があるだろ。たとえそれが、好みの料理法でないとしても。


「あら、野犬が紛れ込んだと思ったら……殺人鬼おにだったのね」

「言えたザマかよ。しかも飛びきり野蛮で食い意地も張ってやがる」

「ずいぶんご挨拶ね、宮園みやぞのくんったら」

「開口一番ヒトを犬呼ばわりするような礼儀知らずに言われたくねぇな、聖夜橋みよはし凛花りんかサンよ」


 聖夜橋みよはし凛花りんか

 俺のかよ磋蓬さほう北高校のクラスメイトで、学校始まって以来の優等生と名高い、才色兼備をそのまま現実にした、目の覚めるような美女だ。

 墨でも塗りつけたような黒髪に、強い意思を感じる凛とした瞳、それに比較的シャープな輪郭で目鼻立ちの整った顔立ちはともするとキツそうな印象を与えるが、それが却って人気のもとだとか。当の本人は当たり障りのない人付き合いしかしていないが、起伏に富んだ体つきや、それでいてスラリとした印象を与える長身、そしてにじみ出る気品とやらが聖夜橋をひとりにはしておかない。


 ……と。

 これが普段の聖夜橋なのだが。


 目の前の彼女は、そんな姿とはうって変わって淫蕩で、獰猛で、どうしようもなく有り様だった。

 申し訳程度に清廉さを主張する白いワンピースから伸びた白い手足は、その艶かしさ故に夜闇から浮いている。その先は腕までも赤黒く染まり、口元もたった今まで起きていた出来事を物語る紅がべっとりと引かれている。

 佳人薄命なんて言葉はこいつにこそ────いや、こいつにこそよく似合う。


 その肢体カラダも、嗤笑エミも、色香ニオイも、媚態スガタも。

 余りに淫靡そそる妖麗そそる艶美そそる凄艶そそる


 まったく。

 出来すぎている。

 明確な罠だ。

 万能の才媛にも不得手はあったか。


「聖夜橋。罠ってさ……もっとこっそり、さりげなく置いとくもんだぞ?」

「ふふ、そう言うけど宮園くん。どんどんこっち来てない?」

「ああ」


 そりゃそうだ。

 そりゃご尤も。

 言い返せない。

 反論できない。

 どうせ絡め取れるなら、隠すだけ手間ってか。

 なら、それでいい。

 それよりも、速く。

 早く、疾く。


 1秒でも、1コンマ秒すら惜しい。

 俺は────


「せっかくだから、お前もこいつらの仲間入りしてみないか? 安心しろよ、こんな食滓やつらとは混ざらないように見映えよく飾ってやるからさ」


 早く、この女を殺したい。

 心から、腹の底から、体の芯から、ただ想う。


 久しぶりだ。生きてたってこんなに惹き付けられるんだ、物言わぬ聖夜橋を見るのが今から楽しみで仕方ない。他のボンクラ共とは訳が違う。他のやつらを殺したってここまで気分が昂らなかった。

 聖夜橋なら。

 聖夜橋ならきっと────


「失礼しちゃう」

「あ?」

 いきなり年頃の少女のように拗ねた顔をする聖夜橋。それは血溜まりと残飯同然の死体たちの中で両手と口許を赤く染めた様と乖離していて、知らず背筋に汗が流れる。

 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、聖夜橋はニッコリと──普段より遥かに愛らしく笑う。


「私、誰かの代わりなんて嫌なの。貴方だったら、釣られて組み敷こうとした彼らの方が断然マシ」

「────そうかよ」


 なんとか、そう返すのが精一杯だった。

 さすがは才色兼備な聖夜橋凛花ってか?

 なんでもズケズケと見通してきやがる。


 それでも、まぁ殺せる。

 人を喰うようなヤツ相手に無傷では済まないだろうが、聖夜橋を殺せるならそれくらいの代償は──


「ねぇ宮園くん。私たち、付き合いましょうか」

「は?」

 いよいよわからない。何言ってんだ、こいつ? だが、聖夜橋はその思い付きが最適解であるかのように豊かな胸を張っている。そして、学校では見たことのないほど可憐に笑う。


「さっきも言ったけど私、私が一番の人にしか体を委ねたくないの。刹那的な欲望であれ、貴方の殺意それであれ。だからね?」

 

 にぃ、と。

 嬌笑えみが歪む。

 耳許に血濡れた唇を寄せられて体が震えたのは、恐怖か悦楽か。


「貴方の中で私が一番になったら、そのときは殺されてあげる」

「……いいじゃん」


 こうして。

 蒼白く虚ろな月明かりの下。

 惨たらしく食い散らかされた観衆の無言の祝福に囲まれながら。


 二匹の鬼おれたちは、交際を始めたのだった。

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