記憶喪失になった夫が、なんかふわふわしている

 夫が馬車で事故にあった。家へと運ばれてきた夫だったが、今意識を取り戻したらしい。その知らせを受けて、ディアナは夫の部屋へと駆け込んだ。


「旦那様!」


 頭に包帯をしてベッドに座っている彼をみた瞬間から、違和感はあった。目が合った彼が微笑むのをみたとき、その違和感ははっきりと形になった。


「こんにちは。あなたが私の奥さん? こんな美人が?」


 この人は、誰だ。ディアナの夫、マルティンとは思えない。


 だって、この人はこんなにふわふわと笑う人ではないから。いつも難しい顔をしていて、氷のようだと言われていたはずなのだ。


 ◇


 ディアナとマルティンは政略結婚だった。


 マルティンは素晴らしい人だ。頭が良くて、仕事ができ、人にも信頼されている。見た目も美しい。まさに完全無欠。そんな彼は氷のようだと有名だ。いつも難しい顔をしていて、笑顔はほとんど見せることがない。紫色の目はいつも鋭く、温かみがなかった。


 正直、マルティンが何を考えているか分からず怖かった。しかし、妻であるディアナを雑に扱うことはしなかったし、尊重はしてくれていた。だから、怖いと思いつつも妻としての役割は果たしていた。


 そんな日々が続くと思っていたのだ。


 それが、崩れた。


 医師によると記憶喪失になってしまったらしい。


 じーっとこちらを見てくるマルティンから、ディアナは目を逸らした。彼の紫色の瞳は、前までは冷たいと思っていたはずなのに、今は温かみを感じる。彼からの視線が落ち着かなくて、ディアナは思わず尋ねた。


「旦那様、どうしましたか?」

「旦那様って照れるなあ。名前で呼んでくれない?」


 ディアナはぴしり、と固まった。何度目か分からない混乱が押し寄せてくる。


 この人は、本当に誰だ。夫に、こんなこと言われたことはない。彼がこんなに柔らかい口調で話しているのは初めてだ。


「ディアナさん?」

「……」


 不思議そうに顔を覗き込まれて、ディアナは躊躇する。名前を、呼んでいいのだろうか。今まで、事務的な会話しかしてこなかったのに。


「マルティン、様」


 初めての呼び方。ぎこちなくなってしまった。じわじわと頬の体温が上昇してきて、ディアナは頬に手を当てる。それに追い打ちをかけるように、マルティンは言った。


「えー、呼び捨てでもいいのに」

「えっと……」


 いきなり呼び捨てなどできるはずもない。戸惑うディアナに、マルティンは安心させるように言った。


「あなたが嫌なら無理には言わないけれどー」


 ふんわりとした笑みを浮かべるマルティンを見ながら、ディアナの混乱は少しずつ収まっていった。


 とりあえず、受け入れるしかない。ほとんど笑わなかった夫は、記憶を失ってふわふわと笑うようになったのだ。


 そこで、ふと気になる。


 マルティンは、なんで氷のようだと言われるほど、冷たい態度だったのだろう。もし、記憶のない今の彼が素の性格なのだとしたら、彼は何か冷たい態度を取る理由があったのだろうか。


 端正な顔を思わず凝視すると、彼は首を傾げる。肩よりも長い銀の髪がさらりと流れた。


「どうしたの?」


 疑問に思ったところで、実際のところを知ることはできない。だって、今のマルティンは何も覚えていないのだから。


 ◇


 医者からは、今まで通りの行動をしていたら記憶を取り戻すかもしれないと言われた。会話や文字などの日常動作については覚えているようだったが、自分の名前やディアナのこと、仕事のことなども忘れてしまったようだ。


 しかし、マルティンが家で何をしていたのか。ディアナは知らない。むしろ、ディアナと共に過ごさない方が良いのではないか。そう思ったが、マルティンから散歩をしようと誘われ、ディアナは断ることもできずに共に歩いている。


 屋敷の使用人に聞いた話だと、マルティンはよく庭を散歩していたらしい。それもディアナは知らなかった話だ。


「頭のお怪我は大丈夫なんですか?」

「うん。少し血が出たくらいらしい。それなのに、なんで記憶がないんだろう」


 どこかのんびりとした声でそう言われ、ディアナはまたマルティンのことを凝視した。彼は不安に思っているかと想像していたが、ほとんど気にしていなさそうだ。


「怖く、ないんですか?」

「うーん。まあ、なるようになるよ」


 こんなに暢気な人だっただろうか。また新しい情報を手に入れて、ディアナは驚くばかりだ。


「ねえ、ディアナさん。あなたは私に記憶がないのは怖い?」

「……怖いというよりも、マルティン様がお困りになるのではないかと心配です」

「ありがとう」


 礼を言ったマルティンが急に立ち止まった。ディアナも足を止めると、マルティンが真っ直ぐにこちらを見つめていた。


「これから何かの手伝いを頼むかもしれない。迷惑をかけるかもしれないけれど、お願いしても良い?」

「はい。もちろんです。私達は夫婦なのですから」

「ありがとう」


 頬が緩む。マルティンがディアナに頼ったのは初めてかもしれない。


 2人の間をふわりと風が通り過ぎた。


 ◇


 マルティンはディアナに手伝ってもらうことがあるかもしれない、と言っていたが、その機会はしばらく訪れなかった。


 マルティンの仕事については部下や同僚が把握していたようで、ディアナが何かを手伝う必要はない。いつも通りの日々を過ごすだけだった。


 それでも、今までと違うのは、マルティンはよく声をかけてくるようになったことだ。庭に出る時も、外出する時もディアナのことを誘ってくれる。


 これが「手伝う」なのだろうか。ただ、一緒に歩いているだけなのに。


 ディアナとマルティンが一緒に過ごす時間は今までなかったのだから、記憶を思い出すのに悪影響を及ぼさないか、という心配はやはり消えない。


 柔らかい笑みで隣を歩いているマルティンを見て、ディアナは恐る恐る尋ねた。


「マルティン様、私が一緒で休めていますか?」

「えー? 記憶をなくす前の私は嫌がってた?」

「いえ、そんなことはないのですが……」


 マルティンは、ディアナにだけ冷たかったわけではなく、平等に誰にでも冷たく見えたから嫌がっていたかは分からない。


 言葉を濁したディアナを見て、マルティンは眉尻を下げた。


「そう思わせていたならごめんね」

「いえ。マルティン様は悪くなくて……」


 曖昧に返事をしたディアナに、マルティンは優しげな目を向けてくる。


「それでも、私は君が一緒に散歩してくれて嬉しいよ」

「本当ですか?」

「うん」


 何だろう、この気持ちは。走り出したいような、高揚した感覚。その気持ちをぎゅうっと抱きしめたいけれど、放っておけば膨らんでいき、心の中を埋めてしまいそうだと警戒したくなるものだった。


 自分の気持ちも分からないまま、ディアナは微笑んだ。


「私もご一緒できて嬉しいです」


 ◇


 庭を散歩している中で、マルティンがいつも立ち寄る一角がある。そこは記憶をなくす前のマルティンがたまにいた場所で、その植物の一部は、マルティンが世話していたという。


 薄赤色の花を見つめていたマルティンが、その1つをディアナの方に差し出した。


「この花、あなたに似合うね」

「いいんですか?」


 それを受け取りながらも念のため確認をすると、彼は伏し目がちに微笑んだ。

 

「うん。きっと、この花は……」

「え?」

「ううん。やっぱり似合っているね」


 彼は言葉をのみ込んだようだが、一体何を考えているのか。花を見ながら微笑んでいるマルティンを、ディアナは黙って見つめていた。自身の頬が緩んでいることに気がついたのは、水たまりに映る自分の顔を見てからだった。


 ◇


 そうして共に時間を過ごしていくうちに、ディアナは唐突にマルティンを愛していることに気がついた。


 マルティンがふわふわと笑い、それを向けてもらうたび、ディアナはまるで世界中の幸福を渡されているような気持ちになるのだ。それを愛以外の何かで表現できなかった。


 しかし。それを認めたところで、意味はあるのか。今のマルティンは記憶がない状態。


 1人の部屋で、ディアナはぽつりと零した。


「どういたら良いの? 愛して、しまったのに……」


 この人は「夫」なのだろうか。彼が記憶を取り戻したら、どうなるのか。


 一瞬。この状態が永遠に続けば良いと思ってしまった。そう思ってしまった自分が嫌だった。


 マルティンは記憶がなくて不自由だろう。それなのに。ディアナは自分が愛するようになった「マルティン」が消えてしまうことを恐れて、そんな身勝手なことを思ってしまったのだ。


「ごめんなさい、どうしたら……」


 答えなんてあるわけがない。マルティンが記憶を取り戻し、元の彼へと戻った瞬間、ディアナの淡い恋心は塵になるも同然なのだ。そして、ディアナが失礼なことを考えてしまった事実は消えることがなく、罪として残り続ける。


 ◇◇


 同時刻。マルティンは自室で物思いにふけっていた。


 記憶はないが、ときおり感情が込み上がってくることがある。例えば、そう。ディアナと一緒にいるときの胸の高鳴りや、彼女が笑うところを見るだけで愛おしさがぶわりと広がる感覚。

 

 それだけではなく、ディアナの瞳に近い色の薄赤色の花を育てていた、というのもディアナを意識してのことだろう。


 「マルティン」の生活には、あまりにも彼女の存在が広がっていた。それなのに、ディアナ自身はそれに気がついていないどころか、嫌われていると思っている。


 自分は、どんな人間だったのか。


 自身の部下や屋敷の人間から「笑わないから怖い」「冷たい」という意見から、「怖いけれど最終的には優しい」「冷たいけれど見捨てはしない」など遠慮のない意見を聞いたが、いまいち自分のことを言われている感覚はしない。


 ディアナは「冷たい」と思っている方の人間だったのだろう。マルティンが何かをするたびに、驚いた顔をしたあとで花が開くように笑うのだから。


「きっと難儀な人間だったんだろうね。ディアナさんのことがずっと好きだったのに、名前すら呼べなかったなんて。一体、何があったのか」

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