第2話


 扉が鳴った。


「どうぞ」


 返った声が、この部屋の主では無かったので徐庶じょしょは少し窺うように扉を開いた。

 中では、郭嘉かくか賈詡かくが机に向かい合って座り、地図を広げ明らかに何かを話しているようだった。


「やあ。徐庶君。よくも私の部屋にそう二度も三度も訪ねて来たね。

 君のそういう無謀な所は別に嫌いって訳ではないけれど。

 ただ君という人間はやはり戦場で使うに限ると思うな私は。

 平時から君のそういう常にこちらのご機嫌を窺おうとして来るような所は、正直私はあまり好きでは無いんだ。

 まあ怒るほどのことじゃないから怒らないけどね。

 したがって余程の理由がない限りは気安く私の私室を、君には訪ねて来て欲しくないなあ。

 まさか江陵こうりょう行きに君を帯同させるからといって、私が君を大好きだなんて勘違いはしていないだろうね?」


「……郭嘉大先生よぉ……徐庶と江陵に行くってあんたに比べりゃ、絶対徐庶を嫌ってるって点では俺の方が上だと思うが。

 だとしても俺だってとりあえず徐庶が訪ねて来たらどんな話かくらいは聞くぜ。

 あんた本当に好戦的だな。

 何も聞かずに噛みつくなよ。

 自分に利のある話かもしれないじゃねえか。俺はとりあえずそういうのは聞くぞ。

 まあ聞いて全然俺にとって旨味のねえ話だと思ったら『帰れ、この野郎!』くらい雑に扱う自信はあるが」


「別に噛みついてない。人を常に腹を空かせてる猛獣みたいな言い方しないでくれる? 私はただ特に親しくも無い間柄の人間がこんな気のいい昼間から約束も取り付けず気安く私室を訪ねて来たことに対して、私と君はそんな親しい間柄じゃないでしょって釘を刺してあげただけだよ。優雅にね」


「何が優雅に釘を刺しただ。あんた優雅なのは佇まいだけで今、徐庶の姿見た瞬間牙剥いただろ。あまりに牙剥くのが早すぎてさすがの俺様も年上として注意せずにはいられなくなったわ」


「へぇ~随分徐庶に優しいんだね。あんな奴どうでもいいから俺は馬岱ばたいの方が面白くて欲しかったって未だに女々しく言ってるくせに」


「誰が女々しい野郎だ。噛みつくなって言ってんだろ。

 郭嘉お前相当養生生活で苛つき溜まってるな。

 これ以上周囲に噛みつきまくるなら本当に許都きょとから荀文若じゅんぶんじゃく呼ぶぞ」


「呼んでもいいけど。私が涼州で毎日賈詡や徐庶の顔を見るしか無い状況に追いやられてることを知ったら、文若殿は多分同情してくれると思うよ」


「お前今俺と徐庶を同じ分類に入れたか?

 顔を見るとつまらねえという同じ分類に入れただろ」


「君たちの顔は見飽きたんだよそろそろ……」


「おう! 徐元直じょげんちょく! 何しに来た! お前が来たせいでいきなり郭嘉が荒れ始めたというのになーに気配消してそっと出直そうとしてんだ!

 とんでもない面白い話しに来たんだろうな! そうじゃなかったらまた牢にぶち込むぞこの野郎! 早く入れ!」


 苛立った賈詡が机を手で叩いて怒鳴った。

 出直そうかなあ、と何となく扉を閉めようとしていた徐庶が一礼して入って来る。

 待ち構えていたように郭嘉は椅子の背もたれに肘を突き、微笑んだ。


「何の話?」

陸議りくぎ殿の話です」


 まだ何か言い足りない感じだった郭嘉がおや、という顔をした。


「陸議君の? なんだ、そうならそうと早く言いなよ徐庶。

 今更君の口からどんな話題を聞いたって私は無関心だったけど陸議君の話だけは別だ。

 彼は私の将来結婚するかもしれない女性の大切な弟だからね。

 つまりほぼ私の義弟と言って過言で無いから、彼の話なら何だって真摯に聞くのに。

 これで君が何も言わずに帰ったら、大切な話を聞き逃す所だったじゃない。

 一番最初にそれを何故言わない?」


「言おうとする前にお前が噛みついて突然べらべら喋り出したんだろうが」


「それにしたってもっと早く陸議君のことだって言う機会はあったよ。

 軍師のくせに機を逃す男だね徐庶。君が駄目なのはそういう意志薄弱な所だ」


「徐庶早く喋れ。ちょっと話しに来てお前は意志薄弱だとまで罵られる奴があるか」


「まさか君までもっと優しくしてほしいなんて言うつもりじゃないだろうね。私にもっと優しくしてほしいなんて言っていいの女性だけだよ。男の分際で私に優しさなんて求めてきたら虫唾が走ってさすがに優雅な私も何をしでかすか分からないよ? 私はこうやって君と普通に話してあげてるだけで十分君に優しくしてるんだからそれが分かったら有り難く全ての言葉を素直に頂戴してくれるかな」


「なに郭嘉が静かになるの待ってんだ! 待ってればこいつ言うこと無くなっていつか静かになるだろとか思ってるのはお前の考えの浅い所だぞ。もっと強い意志で人の話に割り込め。そうじゃなきゃ郭嘉とお前が同じ場所に居合わせたら永遠にお前の喋る番巡って来ないからな」


「誰にでも平等に喋る番が与えられてると思ってるなんて随分夢見がちなんだね」


「誰が夢見がちだコラ。俺の半分の年齢でしかないヒヨコ野郎がなに偉大な先輩を夢見がち扱いしてんだ。お前の風穴空いた腹を俺がもう一度風通し良くしてやってもいいんだぞ」


「策謀で知られた君が暴力に走るなんて腕が鈍ったんじゃないのかな」


「いや大病患う前はこいつの毒舌もっとまろやかだったんだよ。それが快癒したのが余程嬉しいのか日に日に切れ味斬馬刀のように鋭くなって手に負えないんだけどなんだこれは一周回って逆にそんなに打てば響くお前は可愛いもんだねなどと誉めればいいのか?」


「勝手に迷宮に入らないでよ賈詡」


「……腕の傷が痛むようで、少し最近魘されているようです」


 机の下で蹴り合っていた賈詡と郭嘉が、ようやくやり合いを止めた。

「そうか」

「無理も無い。隻腕になろうかって傷だったんだぞ。涼州の気候は厳しいし、例え治る方向に向いていたって傷の痛む日もある」


「軍医には診せた?」

「はい。しかし医者の見立てでは、彼の場合、実際の傷の痛みというより精神的なことによる方が多いのではないかと」


 賈詡がそこにあった酒を飲んだ。


「まあ短時間に色々あったからな。陸議は酒も飲まないんだろ。彼は司馬仲達しばちゅうたつにも逆らえる豪気だが、だからといって重圧を感じない人間ではないからな」


 郭嘉は椅子に深く背を預け直し、優雅に足を組んだ。

 数秒考える仕草をしてから、徐庶の方を見る。


「……。君はどう思う? 今回は陸議君の江陵行きを見送るべきかな」

「いえ。彼の場合江陵行きを見送っても、恐らくこの痛みは引かないでしょう」


 明確に徐庶が答えたので、郭嘉は瞬きをしてから、ふっ、と笑った。


「いい答えだ。私もそう思うよ」


「これはあくまでも提案なのですが、やはりこの天水てんすい砦では戦の気配が強く、彼も気を緩めることが出来ないのではないかと。

 軍医の話では江陵に向かうにしてもまだ少し療養に専念しなければならないようですし、いっそのこと一度長安ちょうあんに戻って養生させてはどうでしょうか。

 短期間でも、気を休めることには意味がありそうです」


 郭嘉は頬杖をつく。

 向かいで聞いていた賈詡は愉快だった。

 

 馬鹿だなあ、こいつは。

 

 郭嘉の中ではもう江陵に行くことが明確に決まっているのだ。

 都にいればこいつは女だの酒だの遊びだのにうつつを抜かす男だが、はっきりとした目的が出来た時はそんなもの頭からすっぽ抜ける。

 ここからちょっと長安に戻って準備を整えてから行こうか、なんて回りくどいことをする奴ではないのである。


 そんなことも分からんで郭嘉と江陵行きなんて大丈夫なのかねと腹の中で笑っていると。


「……そうだね。あと一月ここにいたって動けないというのなら、長安に戻ってみるのも悪くないかもしれない」


 郭嘉がそう言うと、対面の賈詡は驚いた表情を浮かべた。

 それは気にせず郭嘉は徐庶を見る。


「彼は自分の為に長安に戻ることになったと思うと申し訳なく思ってしまうだろうから。

 私が軍医の薦めで一度長安に戻った方がいいと助言されてのことだと説明してくれ。

 急だけど明朝長安に向けて発つ。私の方は気にしなくていい。すぐにでも出て行けるようにしてあるし。

 徐庶。長安には君も付いてきて、陸議君の身の回りのことを助けてあげてくれ。

 長安ちょうあんからいつ江陵に発つかは私が決めて君に教える。

 そうゆっくりはしないけれど、それまでは陸議君が焦らず身体を休められるよう、気を遣うんだ。実際の所、私が君を江陵に帯同する理由はそんな部分だしね。

 悪いけど司馬懿しばい殿に報告して、馬車を用意しておいてくれるかな。

 遅いから馬車は嫌いなんだけど、さすがに今は私も陸議君も単騎で長安まで駆け抜けるわけにはいかないし」


「分かりました。整えておきます」

「うん。よろしく頼むよ」

「はい。失礼致します」


 徐庶は二人に一礼すると、そのまま出て行った。

 郭嘉は椀に手を伸ばして、対面でぽかんとしている賈詡に気付いて笑った。


「なに見てるの」


「いや…………。あんた……。本当に陸伯言りくはくげん気に入ってんだな。江陵行きでこれだけ頭がいっぱいになってるあんたが一度長安に戻るなんて言うの初めて聞くわ。

 それもなんか余程の理由が自分にあるならともかく、他人のために戻るなんて信じられねえ。

 俺があれだけどうせここにいても寝てるだけだから都に一度戻ってゆっくり一月くらい養生しろよって言っても面倒くせえとか言って全く頷かなかったのに、あっさり戻ってもいいとか言ったじゃねえかどういうことだよ」


 郭嘉が湯を飲みながら笑っている。


「別にそんな深い意味は無いよ。私は別にどこで療養しようと動き回れなければ苛々してるけど、徐庶の話じゃ陸議君は都に戻った方がゆっくり出来るならそうした方がいいじゃない」


「いやだから、普通そんな面倒臭い事情を持った奴なんか、じゃあいっそ連れて行かねえわってあっさり切り捨てるのがあんただろ……」

「賈詡の中で私は一体どういう人間性なのかな?」

 郭嘉は苦笑している。


「まあ興味はあるよ。一度自分の側で陸議を使ってみたい。

 それでもう行くつもりに私はなってるから。今から他の人を連れてこられても、なんか気持ちが萎えるじゃない」


 大した意味は無いとは郭嘉は言っているが、実のところそういう細心な所でも余計な雑味は捨てて任務に専念するのが郭奉孝かくほうこうなので、傷が痛んで魘されているような人間を帯同させるなどというのはやはり特別な思いがなければしないと思う。


遼東りょうとう遠征の時でさえ、都への凱旋面倒くさがって西征にそのまま入ろうとしたあんたが副官のために長安に一時帰還するとはねえ」


「別に涼州遠征軍の総司令賈文和かぶんか殿がそんな無駄な時間を過ごすな今すぐ江陵に行けって言うなら私は別にそうしたっていいんだけども」


「いんやそんなこと言わない。残念だったなあ。荀彧じゅんいく許都に行っちゃったよ。長安に残ってたらあんたのこと説教して貰えたのにね」


「私も残念だな。荀彧殿に久しぶりに会いたかった。色々話したいことあったのにな。

 ね、先に報せをやって荀彧長安に呼び戻しておいてくれないかな? 今許都きょとに行ったばかりだしまだそんな重要な仕事任されてないと思うんだ。ゆっくり飲みながら話したい」


「何故お前がそんなにも迷い無く自分は微塵も荀彧に叱られることはねえと思い込んでるのかが分からん……」


文若ぶんじゃく殿は誰かさんみたいに口煩く私を説教したりしたことないよ」


「誰が口煩い説教おじさんだ。ぶん殴られたいか」

「そんなことより成都に行くならいっぱい面白い情報仕入れて来てよね、賈詡。

 そっちも期待してるから」

 賈詡は酒を取ろうとした郭嘉の手から、ひょい、と酒瓶を逃がした。

「期待ね……まあ折角だからまんまとこの賈詡様の手から逃げて成都せいと入りした兄弟の親しみあるツラでも拝んで来るよ」


一族はもうそんなに興味無い。どうせなら噂の諸葛亮しょかつりょうには会って来てよ。どんな感じの男なのか、まだはっきりしないから知りたいんだ」


 賈詡は呆れた。


「友達に会いに行くんじゃねえんだから蜀軍最高位の軍師にそう簡単に会って話せるかよ」

「なんだ。随分やる気が無いね。そんな覇気のなさで大丈夫なのかな?

 私は江陵に行くからには、必ず呉軍の総司令魯粛ろしゅくに会って来るつもりだよ」


 賈詡が、立ち上がった郭嘉を見遣った。


「会って来るって……魯粛は行方がよく分からないんだろ?」


「公に現れてないだけで、江陵にいないとは聞いてない。

 他の二国は色々な戦線を持っているけど、呉にとっては必ず江陵が次の死線だ。

 魯粛は必ずその地に現れるはずだよ」


 一瞬息を飲んだ賈詡だが数秒後、深い溜息をついた。


「――おまえ。

 今、あの時と同じ目をしたな」


「あの時?」


 窓の縁に腰掛けて、郭嘉は小首を傾げた。


「お前が陸議の腕を切った直後だよ。この世の何だろうが利用して、自分の納得する結果を取りに行くっていう悪どい顔しただろ」


「私がいつ悪どい顔なんかしたのかな」


 ふん、と鼻を鳴らして賈詡は立ち上がった。


「調子に乗って、あんま江陵ではしゃぐなよ。

 こんな凡庸な軍師の俺でさえ、浮ついた人間の心に付け込めば曹孟徳そうもうとくの首を取るかどうかってとこまで追い詰められたんだからな。

 大病を克服したって、神になったわけじゃない。

 お前だって死ぬ時は死ぬんだからな」


「心配しないでよ。私はもう、意地でも戦場以外では死なないと決めてる」


 今日は晴れている、涼州の水色の空を背に、郭嘉は外を眺めながら笑った。


 白い息が零れる。

 


「それが浮かれてる状態って言うんだよ。分かってねえな、坊や」



 賈詡は苦笑して、そつなく酒瓶を回収して部屋を出て行った。


長安ちょうあんか……」


 確かに最近は江陵に行くことしか考えていなかったが【烏桓六道うがんりくどう】を殲滅した時は早く帰って曹操に、ずっと自分を狙い付けていた暗殺者をこの手で殺してやったのだと報告したい、そう思っていたことを思い出す。

 

 曹操とは祁山きざん築城が一段落付くであろう春頃に戻り、花見でもしながら挨拶するはずだった。


 涼州は都より季節が早く進む。

 雪は積もり始めているが、紅葉が残っていたのはついこの前のことだ。

 年内に再び会うことになるとはさすがに郭嘉も予想していなかったが、今年は特別だ。

 

 春になれば戦線が動き、それ以後都に戻る機会など、もしかしたら長く失われるかもしれない。


 これほど静かな冬は今だけかもしれないのだ。

 そう考えれば郭嘉は長安に戻ってもいい、そういう気分にはなった。


 顔も分からないが呉軍の魯粛ろしゅくも恐らく、同じことを思っているはずだ。

 あの男が今、呉の各地を歩き回っていて所在が知れないのは、今しか自由にそう出来ないと知っているからだ。


 それを知って、郭嘉は江陵へ行く。


 ――その時、郭嘉の中に確信が生まれた。


 魯粛も必ず江陵に現れるはずだ。


 赤壁せきへきが勝敗に関わらず自分の最後の戦場になることを、周公瑾しゅうこうきんは知っていた。

 赤壁に全ての力を注ぎながらもあの真紅の軍師の眼差しは、自分の命を超えた、未来の世界のことも思い描き、捉えていたのだ。


 魯粛を後継に指名したのは、思いつきなどではないはずだった。


 周瑜が自分の死後、この男ならば自分と同じように孫呉の行く道を、同じ方向へ迷わず導いていけるはずだと見極めた男。



「どんな顔をしているのかな。呉軍総司令魯子敬ろしけい

 会ってみるのが今から楽しみだ」



 目を細め、遠くまで白く覆われた涼州の大地を見つめながら、楽しげに郭嘉は微笑わらった。





【終】

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花天月地【第99話 冬の始まり】 七海ポルカ @reeeeeen13

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