第8話 俺は妹狂いであって変態ではない
帰り道。佳春と別れて自宅方面の電車に乗った俺と志乃の間には、それはもう気まずい空気が流れていた。
先ほどの一幕を見ていない他人でさえ、いまの俺たちの様子を見たらなんとなく気まずくなって席を立つだろう。
俺は同人誌を胸に抱きつつ、先ほどから何回か志乃の顔色をチラッと窺っているのだが、彼女は心ここに在らずといった感じで車窓の景色を眺めていた。遠くのほうで太陽が姿を消そうとしているなか、橙色に染まった車内で俺は勇気を振り絞って声をかけた。
「……なあ、志乃」
「ん」
彼女はこちらに顔を向けようとしない。
「今日の夕飯、どうする?」
「まあ、どこかで外食しても、別々に食べてもいいんじゃない」
「じゃあ、外食にしないか? 駅の近くに美味しいラーメン屋があるんだよ」
「……うん、いいよ」
「…………」
「…………」
そして、ひとたび会話が途切れれば二人の間にはまた気まずい沈黙が降ってくる。さすがにそろそろこの空気を打破したかった俺は、少しだけ彼女と距離を詰めると無理やりにでも会話を続ける。
「カフェで佳春と同人誌読んでたことについては謝るよ」
「……いや、別にそれを不満に思ってるわけじゃないよ」
ということは、別のなにかを不満に思っているということか。彼女は。
「その、同人誌? とか、コミケ? とかそういうのはよく分からなかったけど」
「ああ」
「風見くんと佳春ちゃんって、その……そこまでの仲だったんだ、って思って」
「……えーと?」
「だって、仮にも男の子と女の子なのに、ああいう本をいっしょに買いに行けるのって……相当仲が良くないと無理じゃない?」
「あー……まあ、たしかにそれはそうか」
「だから、その、なんていうか」
と、志乃はまるでさっきまでの俺みたいに口ごもりまくっている。彼女はしばらく視線を右往左往させて言葉を探していると、やがて蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「いつの間にか、置いてけぼりくらっちゃってたなぁ、みたいな」
そう言って志乃は静かにこちらを向いた。その目には極度の不安と焦りの色が感じられた。彼女は指先で髪をくるくるといじりながら言葉を続ける。
「あは、なに言ってるんだろわたし。気にしないで」
「……ああ」
彼女が言いたいことをすべて汲み取ることはできなかったが、少なくとも俺たちがオタクであることに拒否反応を示しているわけではなかったようだ。そこだけは胸をなでおろすことができる。
そして、また5分ほど電車に揺られていると、今度は志乃のほうから話を切り出してきた。気づけば俺たちが乗っている車両には誰もいなくなっていた。
「今日の朝、さ。風見くんと佳春ちゃん、いっしょの同好会に入ってるって言ってたよね?」
「そうだな」
「どういう同好会なの?」
「えっと……漫画、いや同人誌を描いてる」
俺は視線を外しながら答えた。志乃は驚いたような顔をする。
「えっ、風見くんって漫画描いてたの?」
「ああ、中学二年のときからな」
「あとで読んでもいい?」
「…………別に構わないが、引くなよ?」
「え、ワンチャン引かれるようなやつ描いてるの?」
志乃の顔が幽霊でも見たみたいに引きつった。
先ほどの一件で俺がどうしようもないくらいのオタクであることがバレた以上、もはや同人作家であることを隠し続けるのも馬鹿らしくなってきた。
……というのは建前で、ホンネとしてはこれ以上志乃に隠し事をしたくなかったのだ。まあ、もしかしたら俺の妹狂いを知って志乃がそそくさと荷物をまとめ東京に帰ってしまう可能性もなくはないが、そのときは土下座してでも引き留める所存だ。
それに、俺が同人作家であることがバレたくなかった理由のひとつとして、ディープなオタクであることが彼女にバレたくなかったから、というものがある。
東京でイケイケな生活を送ってきたであろう彼女が、すぐこちら側の世界に馴染めるだなんて到底思えない。拒否反応を示すことだってあり得るだろう。そうなってくると、俺と志乃の円滑なコミュニケーションが阻まれるようになり、最悪の場合、人間関係に影響が及ぶことだってあるかもしれない。
それは困る。少なくとも、俺の心の中で燻っているこの感情に区切りをつけることができるまで、彼女にそばを離れてほしくない。だから、危険因子はあらかじめ排除しておく必要があったのだ。
「……あ、そういえばこの前の夏コミで出した新刊のデータがスマホに入ってたな」
「それは風見くんが描いたやつ?」
「ああ。まあ正確には俺と佳春が描いたやつだな」
「……ふーん」
俺はスマホを取り出してファイルアプリを開くと、念のためバックアップを取っておいた原稿のデータを開く。内容はひょんなことから疎遠になってしまった兄妹が、夏休みをきっかけに再会し、実家の兄の部屋や、廃校になってしまった思い出の小学校、かつて作った秘密基地の中で愛を確かめ合うといった話だ。
……あ、ちなみに愛を確かめ合うといっても、あくまでキス止まりなので。執拗に身体を触ったりとか、次のページで急に朝になって下着姿の妹が起床するとか、そういう生々しい描写はないので。
「じゃあ、読んでみてもいい?」
「どうぞ」
志乃にスマホを手渡す。彼女は神妙な面持ちで画面に目を通すと、そのまま静かに漫画を読み始めた。
クリエイターあるあるだが、自分の描いた作品を他者に目の前で読まれているときほど緊張することはない。作品の内容が頭のなかで嫌でもリピートされ、誤字とか描き間違いを思い出したときには「やっぱ返して!!」と叫びたくなる。
がたんごとん、と電車が心地よく揺れるなか、彼女のひそやかな息づかいだけが聞こえる。志乃はいま何を思っているのだろうか、俺の漫画を読んで何を感じているのだろうか。それが気になってしょうがない。
そして、10分後。そろそろ電車が目的地に到着する頃合いに、志乃がようやく画面から顔を上げた。その頬は少しだけ紅潮している。
「……ありがと」
「どうだった?」
「感動したし、面白かった」
「おお、それは嬉しいな」
「特にヒロインの心情描写がすごい細かくて、読んでて心がきゅってなったよ」
「そこは特にこだわったからな。心のどこかでは『あの頃の二人』に戻りたいんだけど、時間の流れはそれを許してくれない。兄も妹も、身体や心が成長してしまったばかりに、かつてのフレンドリーで積極的な態度を取りづらくなっている」
漫画のストーリーを考えているのは基本的に俺だ。いちおう最終的なゴーサインを出すのは佳春だが、キャラクター設定やシナリオはすべて俺に任されている。
「そんな、ヤマアラシのジレンマとも取れる兄妹の状況を、それぞれのキャラクターの心情に寄り添って描いてみたくて、その漫画を描いたんだ」
「うん、最初に風見くんが『引くなよ?』とか言ってたからどれだけやばいお話なのか焦ったけど、普通にちゃんとした恋愛モノじゃん」
志乃は読後の余韻に浸っているのか、先ほどの漫画をもう一回流し読みしている。
「……まあ、作中でやたら『妹』を強調するようなシーンが多いのが、ちょっと個人的にアレだったけど」
「いや、そこがいいんだろ! というかその作品はそれがテーマだから!」
「風見くんって、もしかして妹好きなの?」
「ああ、なんせ最強の妹を描くために同人作家を志したんだからな」
「……そっか、なるほど」
「なんか、思ったより反応薄いな」
「えっ? そんなことないよ」
志乃は手を振って否定すると、スマホを俺に返す。
「とにかく、読ませてくれてありがと」
「ああ」
そうこうしているうちにアナウンスが鳴り、降りる予定の駅の名前が電光掲示板に表示される。太陽はとっくに地平線の向こうへと沈み、反対側の空はマリンブルーの色に染まり始めていた。
俺と志乃はそのまま降車すると、まばらに置かれた電灯の下を通りながらアパートを目指す。途中で木々がうっそうと生い茂る神社の前を通り、志乃が足を止めた。
「どうした?」
振り返ると、彼女はくすんだ色の鳥居の先をじっと見つめている。
「ねえ、風見くん。もしかしてさっきの漫画に出てきた森って、ここ?」
「……鋭いな。ああ、ここをモデルにしてる」
「なんていうか、このシーンのキス描写、すごい生々しくてどきどきしちゃった」
「……そ、そんなに生々しかったか?」
俺の記憶ではそこまで激しい感じではなかったと思うんだが。少なくとも、同人作家基準で考えると。
「もしかして風見くん、経験者だったりする?」
「そんなわけないが!?」
「でもほら、リアリティを追求するために佳春ちゃんと」
「してないってば!!」
志乃を置いてさっさと帰ろうとする俺のあとを彼女が追いかける。
どうやら、俺の……一世一代の告白(同人作家のカミングアウト)は、いい感じに丸く収まりそうだった。
ちなみに、駅の近くのラーメン屋に行こうとしていたことは、ちょうどアパートに着いたタイミングで思い出した。
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