件名:Re:退職のご挨拶

万歳カプコム元帥閣下

第1話

件名:Re:退職のご挨拶【営業部 N.T】


N.Tさん

お疲れ様です。

人怖系のホラーが読みたいと仰っていたので、折角なので、この機会にあなたを主人公にして書いてみました。

どうぞお体にお気をつけて、新天地でのご活躍お祈りしております。


───────────────────


パタパタと子供が走る軽い足音と、それを追いかける妻の声。

3歳になった娘の優杏はやんちゃで、妻の言うことなど聞こうともしない。


「ママ、俺そろそろ行くからねー」

洗面所で何やら騒いでいる声がするが、いってらっしゃいとは返ってこない。

舞も俺の言うことなんて聞いてないよな。

そうボヤきつつ玄関を見るとゴミがまとめられていた。

どうやら捨てに行けと言うことらしい。

俺は召使いかよ。一言くらい言えよな。そんな言葉を飲み込み、直哉はわざとらしくため息をついてゴミ袋を持ち上げた。


会社の最寄り駅を降りて少し歩くと、歩道橋が巨大な蛇の群れのようにのたうっている。その上を歩くサラリーマンたちはさながらアリだろうか。

直哉はアリの群れと共に階段を上がった。

歩道橋の上を歩く。足元から車の風切り音が聞こえてきて清々しい気持ちになる。


最近、舞との関係が上手くいっていないのは鈍い直哉にも分かっていた。

子育てで忙しい舞と、仕事で忙しい直哉。

結婚した当初と比べて明らかに会話の数も減っている。

どうしたものかと天を仰ぐと、秋晴れの空が広がっていた。

雲ひとつない空を見ると自分の悩みが陳腐に思え、朝からこんなこと考えるのはやめようと首を振る。

互いに忙しい今の状況ですれ違うのは当たり前だ。 むしろここを乗り越えてこその夫婦だろう。

給料が入ったらどこかに出かけるのも良い。キャンプや温泉、テーマパーク……。

思い切って台湾はどうだろうか? 以前、舞が行きたがっていたはずだ。

子供はその間両親に預けてしまえばいい。直哉の母親は迷惑がるどころか、むしろ喜ぶだろう。


リズムよく階段を降りる。シルバーの車が道路を走り抜けていく。

その時、大きな声がした。

彼は振り返る。


「あー!!」

歩道橋の上にいる人影が、こちらに指をさしながら甲高い叫び声を上げていた。

「あっ、あっ、あー!!」

何かを、いや直哉を、見つけた!と言うように指を突きつけている。

もう片方の手を何かにアピールするように、ばたばたと振り下ろしながら叫び続ける。

異様な人影は、不思議なことに顔が影になって見えない。ただ口を大きく開いているのだけが分かる。

「あー! あっ、あ、あーー!」

たまにいる異常者だろう。不気味だが、都会には多い。

周りも慣れたもので驚く素振りも見せずに通り過ぎていく。

直哉も同じく、何事もなかったかのように去っていこうとした。


だが。

その人影は突如としてこちらに向かって走り出した。

ガンガンと滑り止めを踏みつける音が響く。

とてつもない勢いで階段から降りてくる。

手に何か持っていた。刃物、だろうか。

直哉の足は竦んで動かない。

それでもなんとかカバンを振り上げた。

襲ってくるだろう衝撃に備えて全身に力が入る。

しかし、いつまで経っても衝撃は来なかった。

恐る恐るカバンを下ろす。

誰もいない。

直哉は驚いて辺りを見渡す。

しかし姿は見つけられない。

通り行く人は怯えきった彼に怪訝な顔を向けていた。


何だ今のは。

直哉の心臓は早鐘のように脈打ち、指先が冷え、震えていた。

間違いなくアイツは自分の方に走って来ていたのだ。横を通れば気配がする。

そもそも、こんなに人が多い歩道橋を滑るような勢いで降りられたのはどうしてか?

幻覚? それとも、白昼夢、というやつだろうか。

道路の向かいに交番があるのは知っていたが、通報する勇気もなく、彼はしばらく立ち尽くしていた。


出社し席につくと先輩の舟山に声をかけられた。

「徳井、お前また納品書の番号間違ってたって先方からクレーム来てたぞ」

呆れたように笑う舟山に、直哉もすいません、と軽く謝る。

「そういや今日の新規営業先との打ち合わせ、丸岡サンも一緒になったから」

「え?」

「イヤホンの他にインポートの布小物も扱ってるらしくってな。

ま、メインはお前の方だから、手抜くなよ」

「もちろんですよ」

今日は朝から嫌なことが続く。

丸岡 友梨は同じセールス部署の同僚で、直也と同じ33歳。

女性営業に多い、ハツラツとした面倒見のいい性格だ。

だが直哉にとって丸岡は面倒な女だった。

彼の仕事のミスを目ざとく見つけてはチクチク言ってくるし、取引先への愚痴が多い。

時代錯誤な考えかもしれないが、やはり女性に営業は難しい。取り引き先の社風にもよるが、体育会系のノリが色濃く残る職種だ。

舟山から聞かされた昔話のようなストレートなパワハラは減ったが、無理難題を振られるのは当たり前。飲みの席では妻や娘に聞かせられないような言葉がポンポンと出てくる。

そんな職種を選んだのは丸岡なのだから愚痴をこぼされても、直哉からすると堪えて当然だろう? と思うのだ。

それで、今日も帰りの電車で愚痴を聞かされるのだろう……。


「あの会社、化石みたいですよね。未だに女性にお茶汲みさせて」

丸岡のよく通る声は、電車の走行音に負けない。

「大体、鈴木部長の田代さんに対するあの物言い。ヤバイですよね。普通にセクハラで訴えられますよ」

「……なんのことでしたっけ?」

始まるぞ。そう直感した直也は、思い返すふりをしながら目の前の座席に座る女性に意識を飛ばした。

舞に似たボブカットで、可愛らしい水色のスカートを履いている。最近の妻はスウェットばかりだからか、スカートを履いている女性を見かけるとつい見つめる自分がいた。

女性は直也の視線に気が付くと恥ずかしそうにスカートの裾を直した。可愛らしい。

舞もこんなふうに――そんな妄想を丸岡のキンとした声が掻き消す。

「聞いてなかったんですか!? ほら、この子彼氏いないからそっちの会社で誰かいい人いないの? って。年選ばなければここにもいるんだけどねー、とか言ってて超キモかった」

それくらい良いだろう、なんて丸岡の剣幕を見ていたら言えない。直哉は曖昧に頷いた。

「いま令和だっていうのに信じられません」

「中小はどこもあんなじゃない?」

「いやー、あそこは群を抜いてる。

鈴木部長も仕事できないのになんで部長なんだか……」

彼女はそう言いながら、スマホを取り出しメールチェックを始めた。

やれやれ、と直哉は内心ため息をついた。

丸岡が独身だからコンプレックスを刺激されたのだろう。鈴木部長にはフォローするこちらの身にもなってほしいものだ。


手持ち無沙汰になった彼は電車を見渡す。

ふと、車両の連結部分のドアに立つ女性に気が付いた。

最初はボサボサの長く黒い髪の後ろ姿を汚いな、と思った。

だがすぐに違和感に気が付く。

長いのは髪、ではない。頭だ。頭頂部から肩までの位置が70cmは離れている。

まるで、頭か首が異様に長いかのように。

そこまで考えてぞっとする。

これは人間なのか?

女の指先は黒く汚れている。同様に、着ている白っぽいワンピースの裾も汚れていた。

足元を見ると黒いヒールを履いていた。

ぐにゃり。足首が電車の揺れと共に曲がる。

なんだこれは。

直哉が呆然と見つめていると、女の首がゆっくりとこちらに回る。

目が合ったら……。そう思った途端背筋に怖気が走りすぐに視線を逸らした。

カツン、カツンとヒールの音がする。

女は直哉の視線に気付いたのだろうか。ゆっくりと歩いて来た。

電車の走行音はもう聞こえない。ただ奴の足音だけが直哉の脳に響いてくる。

ハァハァと荒い息が聞こえてきた。これは自分のものなのか、奴のものなのか。

耳障りな音はますます近付いてくる。


「徳井さん!」

丸岡の声でハッとした。

彼女は怪訝な顔で直哉を見上げている。

「舟山さんからのメール確認しました?

在庫の数量が合わないって……。

あの? 大丈夫ですか?」

「えっ? あ、うん……」

慎重に顔を上げるが奴の姿は見当たらない。

朝と同じだ。

「……あのさ、変な女の人いなかった?

黒い髪で白いスカート履いてた……」

丸岡はキョトンとして車内を見渡す。しかし、そんな女を彼女も見つけられなかったのだろう。首をひねって「いないけど」と呟く。

「幽霊でも見ました?」

幽霊。その言葉を聞きストンと腑に落ちた。

「そうかも。朝も変な人見かけてさ」

「あのー、メールの件なんですけど」

「あ、そうだそうだ。見ます」

舟山からのメールを読みながらも、頭の中は「幽霊」という単語でいっぱいだった。

確かに、幻覚よりも幽霊や悪霊といったものの方がしっくりくる不気味さだった。

しかし幽霊だとして、今朝から急に見えるようになったのはなぜか?


タバコ休憩の合間に、喫煙所で幽霊について軽く調べてみる。

近親者が亡くなった場合や、霊の力が強い場所に行くと見える場合があるらしいが、直哉にはどれも当てはまらない。

スマホをスクロールしていっても、ピンとくる情報は現れなかった。

「なんなんだか……」

一人そう呟いたつもりだったが、「どうしたんですか?」と声をかけられて驚いた。

デザイナーの庄司だ。

彼は黒縁メガネを指で押さえながら、不思議そうな顔をしてこちらを見てる。

「もしかして、また締切ギリギリの依頼じゃないでしょうね〜?」

「い、いやいや。その節はすみませんでした。

じゃなくて……庄司さんって……幽霊とか、信じてます?」

馬鹿げた質問だと思ったが彼は興味深そうに頷いた。

「いると思いますよ。だって死ぬって相当エネルギー使う気がしません?」

「見たことってありますか?」

「残念ながら」

彼はアイコスを片手にフッと笑う。

「見たいわけじゃないですけど……。

でも徳井さんが幽霊信じてるとは思わなかったな。

もしかして、見ちゃいました?」

からかうように言われ、直哉は静かに頷いた。

「えー! 本当に? どんな?」

答えようとしたタイミングで喫煙所のドアが開き「お疲れ様です」と無愛想な声がした。

エンジニアの藤堂 晴子だった。フレームの無い眼鏡にボサボサ頭。化粧はほとんどしないようだ。

年齢は直哉より少し上くらいだというが、40歳に見える。

「あ、お疲れっす。藤堂さんって幽霊信じてます?」

庄司の明るい声に彼女は戸惑った様子だった。

「なんですか藪から棒に。信じてませんけど」

「徳井さんが幽霊見たそうですよ」

「はあ。疲れてるんじゃないですか?」

吐き捨てるように言われて内心、イラッとくる。嘘でもいいから少しは愛想良くしてほしいものだ。

「で、どこでどんな幽霊見たんですか?」

興味の無さそうな藤堂を気にすることなく、庄司は話の続きを促した。

直哉は歩道橋で見た人影と、電車にいた不気味な女について説明する。

思い出すだけでも背筋が粟立つが、直哉の話し方が悪いのか、二人は怯えた様子もなく煙を吐き出している。

「2つ目のやつ、丸岡さんと一緒ってことは、丸岡さんも見たんですか?」

藤堂から聞かれて首を振る。

「いや、彼女は見てないって言ってました。俺も視線反らしてる間に見失ったんですよね」

「いやー。そんなガッツリ幽霊見てると思いませんでしたよ!

しかも2回も。なんらかの才能が芽生えたんでしょうか?」

庄司はどこか楽しそうだ。

やれやれと思い今度は藤堂の方を見ると、彼女は煙をすうっと吸い込み、ゆっくり吐き出した。

「徳井さん呪われてるんじゃないですか?」

「はあっ?」

予想していない言葉に素っ頓狂な声が出る。

「呪い?」

「どっちも大人数の中で徳井さんだけ狙われてたんで、呪われてんのかなって」

「俺呪われるようなことしてませんよ……」

「本人は気付いてないだけだったりして」

「庄司さんまで!」

「すいません。でも呪いならお払い行かなきゃですね」

「呪われてないですから」


直哉は休憩室から出てパソコンの前に座るが、仕事に集中できそうにない。

呪い? 俺が? 誰にそんなことされるというのだ。

彼は自分が普通よりも少し善人寄りの人間だと思っていた。

イジメや暴力などとは、これまでの人生無縁であった。犯罪などもってのほか。

親族にそんなような人もいない。

両親や姉達とも仲良くしているつもりだ。

仕事の出来はそれなりだが、誰かを陥れるような真似はしていない。

セクハラやパワハラなどは当然無し。

子育てや家事も手伝うし妻や娘からは愛されている実感があった。

人から嫌われるような人間ではないはずだ。少なくとも、呪われるほどには。

「徳井、今日リョーコーの里中さんと飲むんだけど来ないか?」

舟山の声掛けに思考を止め顔を上げる。

「里中さんですか?」

「そうそう。今色んな人とバチバチにやり合ってるから息抜きしたいんだろ。

でさ、遠野サン、来るらしいよ」

「マジすか」

遠野 由恵はリョーコー社のマドンナ的存在だ。25歳と若いが、言われた仕事はなんでもソツなくこなす。控えめな性格で、笑ったときに覗く八重歯が可愛らしい。

彼女がその場にいるだけで疲れが癒やされる。言うなれば荒野に咲いた一輪の花だろう。

当然、妻帯者の直哉はアプローチを仕掛けたりはしないが、社内の奴らで何人か狙っているのがいるのは知っていた。

「畑中」

直哉はすぐに後輩に声をかける。

「聞いたか? 遠野サン今日来るってよ」

「あ、そうなんすか……」

「そうなんすか、じゃないよ。お前狙ってんだろ?」

「ちょ、変な言い方しないでください。

確かに美人だとは言いましたけどオレ彼女いるんで」

「乗り換えちゃえ」

「バカ言わないでくださいよ。

というかなんで遠野さん来るんですか? あの人EC担当ですよね」

遠野の役職をすっかり忘れていた直哉はそういえば、と疑問をやっと抱く。

後輩二人の不思議そうな表情に舟山が不敵な笑みを浮かべた。

「里中さんが俺達と飲むから来ないかって声掛けたら来るって言ったらしい。

もしかして、俺達の中に……」

「舟山さん夢見過ぎですよ。相手は25歳。40歳なんてオッサンですからね」

畑中の冷たい言葉に舟山は太鼓腹を震わせ「このダンディな色気をわかってくれるかもしれないだろ」とのたまう。

「遠野さん彼氏いるのかな」

これまた直哉の腑抜けた発言に畑中はこめかみを押さえ「こんなのが先輩だなんて嫌だ……」と生意気なことを言っていた。

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