第2話 記憶喪失

 椎菜リオンは、教室のドアを開けた。


 ざわついていた教室内は、リオンの登場とともに皆が口を閉ざし、水を打ったように静まり返った。


「お、おはよう、椎菜。

 今日から学校復帰なんだな」


「……俺のこと、覚えてる?」


 教室後方の入り口に立ったリオンは、観察するように教室内を見回したが、失望したようにゆるゆると首を振った。


 クラス内にも、その失望が伝わり、クラスメイトは誰も彼も顔色をくらくした。


「ごめん、なにも覚えてなくて……」


 リオンが申し訳なさそうに呟くと、数人の生徒が寄ってきて、励ますようにその肩を叩いた。


「いいって、気にするなよ。

 わからなかったら誰になにを聞いてもいいし、俺たちみんな、お前の味方だから」


「そうだよ、リオン。

 あたしたちなんでも協力するし、わからないことはわからないって言ってよ」


 そうそう、とクラスメイトが同意を示すうなずきをする。


 なんだかクラスメイトの優しさに、涙が出そうだった。


 臆病な子どものように、不安を顔に貼り付けるリオンには、これまでの記憶が一切ない。


 当然登校した今も、クラスメイトの顔も覚えていないし、自分が常緑じょうりょく高校2年生だということも、入院している間に両親から教わったことなので、本当にここが自分が通っていた学校なのかどうかすら、リオンには判別がつかない。


 朝、制服を着て鏡の前に立ってみても、自分の姿にぴんとくるものはなかった。


 自分がアイドルグループ『Dreamer』のメンバーであったこと、恋人と噂された夢原柚希のこと、その後追い自殺をしたこと、そのすべての記憶をごっそり忘れてしまっていた。


 転落した際、頭を強く打ったのが原因ではないかといわれているが、心因性の記憶喪失ではないかともいわれている。 


 意識を取り戻し、高校に復帰するまで2ヶ月を要した。


 あの高さから落ちて、この程度の怪我ですんだこと、後遺症が身体に残らなかったことは奇跡に近いと、医師にいわれたが、正直、リオンはなぜ自分がビルから転落したのか、その理由すらわからないでいた。


 入院先で目を覚ましたときには秋の匂いが残っていたが、リハビリをしているうちに季節は冬に片足を突っ込んでいた。

 

「ま、座れ、お前の席ここだから」


「うん……ありがとう」


 リオンはおずおずといった様子で窓側の席に腰を下ろす。 


 なにか、ひとつでもきっかけがあれば、記憶を引きずり出すこともできそうなのだが、高校に着いてからも、クラスメイトと顔を合わせた今も、記憶を回復する糸口は見えないままだ。


 溜め息をつきつつ、かばんから教科書を取り出していると、自分が教室に現れたとき以上のざわめきが起きて、リオンはうつむきがちな顔を上げた。


 リオンが入ってきたのと同じ、教室の後方のドアのところに、ひとりの女子生徒が立っていた。


 長い前髪で顔を覆い、ぶかぶかの制服に身を包んだ清潔感のない少女だった。


 スカートから覗く脚は棒のように細く、小柄で、毛先が跳ねている黒髪は肩より少し長いくらい。


 ひと目で陰気な雰囲気を感じ取り、リオンは目を細めた。


 それはリオンだけではないらしく、周りの生徒も、みな一様に戸惑った様子で少女を見つめている。


 ゆるり、とした動きで少女は歩き出すと、好奇の視線にさらされていることなど気づきもしないように、どさっと重そうなかばんを机に置いた。


 リオンの隣だった。


 椅子を引き、そこに座った少女は、前髪の隙間から猫のような瞳を覗かせて、リオンへと視線を寄越よこした。


「おはよう」


 少女が低い声でそう言うので、リオンは慌てて「あっ、おはよう」と返した。


 それきり、少女はリオンの方を見ることはせず、ひたすら机に視線を落とし続けていた。


 クラスメイトがなにごとかをささやき合っている。


 どうやら、自分の次に登場したこの少女も、訳ありのようだ。


 ざわめきが引かないうちに始業を告げるチャイムが鳴り、教室にくる前、職員室で顔を合わせた担任の男性教師──高村たかむらが教室前方のドアを開けて入ってきた。


 みんな、慌てて自分の席につくと、すましたような表情を貼り付けて真っ直ぐ前を見ている。


 高村がリオンを見つめて目だけでうなずくと、次にリオンの隣に座る少女を見て、小さい目を丸くしていた。


滝沢たきざわ……久しぶりだな」


 少女──滝沢というらしい──は前髪の間から瞳を覗かせて小刻みにうなずいた。


 咳払いすると、高村が満足そうに教室を見回した。


「これで久々にクラス全員が揃ったな」


 リオンは滝沢という少女をちらりと横目で盗み見る。


 彼女が高校にくるのは珍しいことのようだ。


「では、ホームルームをはじめる。

 まずは連絡事項から──」


 高村は、ベテランらしく動揺を最小限でしずめると、すぐに話題を切り替えた。


 

 見知らぬ学校、見知らぬ教室、見知らぬクラスメイト……どれも現実味がなくて、果たして本当にここは自分が居た場所なのだろうかと、リオンはただただ居心地の悪さに身を縮こまらせていた。


 授業についていけなくて、窓の外を眺めているうちに昼休みになった。


「リオン、購買行こ。

 学校の中案内してあげる」


 数人の女子生徒がリオンのもとにやってきて、ほらほら、と背中を押して教室から出そうとする。


「あ、ああ、うん……」


 リオンは彼女たちの迫力にされるように喧騒で満ちる教室から廊下に出た。 


 そのとき、ちら、と視線を送った隣の席から、滝沢はいつの間にか姿を消していた。 


 親切な女子たちに校内の施設を案内されながら、一階にある購買へと向かう。


 道中、すれ違う生徒が好奇の目を自分に向けていることにリオンは違和感を抱いていた。


 今朝、クラスメイトと顔を合わせたときから気にはなっていたのだが、どうも自分は『ごく普通の生徒』ではないらしい。


 いや、それは登校する途中から薄々気づいてはいた。


 同じ高校の制服を着た生徒たちが、自分の顔をじろじろ見てきたり、遠くからスマホで撮影してくる生徒までいるのだ。


 自分は高校の有名人なのだろうか?


 記憶を失う前、一体なにをやらかしていたのだろう。


 購買で惣菜パンを買い、教室へ帰る道すがら、リオンは女子たちに訊いてみることにした。


「……あのさ、僕、なんかしたの?」


「え?なんかって?」


「なんか、みんな僕のこと知ってるみたいだから……。

 変なことして目立ってたのかなって」


 リオンは自分が素行の悪い生徒だったのではないか、と不安に襲われていた。


 なんらかの問題を起こして有名だった、なんてことがあれば、ただでさえ居づらい環境なのに、さらに居心地が悪くなる。


 リオンの問いに対して、女子たちはあからさまに困惑の色を浮かべた。


 互いに視線を交わし、リオンの疑問にどう答えるかを相談しているふうである。


 やはり、自分はなにかやらかしたのか……。


 リオンが気落ちしそうになっていると、女子たちは、ぱっと顔色を明るくした。


「心配しないで、リオンが有名なのは悪い理由じゃないよ。

 ほら、リオン可愛いから」


「可愛いって……。

 そんなこと言われても僕、全然嬉しくないんだけど」


「あ、イケメンって言ったほうがいいのかな。

 とにかく、心配いらないよ、大丈夫」


「そうそう、めっちゃモテてたことに違いはないから」


 ほがらかに笑う彼女たちの笑顔にはうれいはない。


 とりあえず、その言葉を信じることにする。


 教室に戻って、女子たちとお喋りしていると、不意にリオンの隣の空いている席に視線を送ったひとりが声を潜めて言った。


「滝沢さん、なんで急にきたのかな」


「本当、不思議だよね。

 入学して以来、ほとんど学校きてないんでしょ?」


「うん。

 あたし1年のときも同じクラスだったけど、テストのときくらいしかきてなかったな」


「引きこもりってやつなんでしょ?」


「そう。

 家からほとんど出ないみたい。

 小学生のときからいじめられてて引きこもりになったって話」


「幽霊みたいだったもんね」


 くすくす、と女子たちが無邪気に笑い合う。


 幽霊という言葉は、滝沢の見た目を表すのにぴったりだと思ってしまった。


 リオンも、つい笑みをこぼしてしまう。


「あ、やっと笑った」


 福井ふくいと名乗った女子が、リオンを見て嬉しそうに微笑んだ。


「やっぱり可愛いなあ、リオンは」


「可愛いはやめてって」


 リオンも軽い調子でそう返した。


 ふふふ、と笑いが起きる。


「お、馴染んできたじゃん、椎菜」


 男子生徒たちもやってきて、リオンはクラスメイトに取り囲まれる形になった。


 たった半日だが、この調子なら学校生活を上手くやっていけるのではないかと、リオンの頭の中は楽観的な考えが占めるようになっていた。



 昼休みが終わりチャイムが鳴るころに、滝沢は席へと帰ってきた。


 不安が払拭ふっしょくされ、心が軽くなっていたリオンは、勉強に身を入れようと教壇に立つ教師の言葉を真剣に聞いていたので、隣から送られる滝沢のじっとりとした視線に気づくことはなかった。


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