第25話 歯状線と言う名のタイムホール

 放課後の図書室。窓から差し込む夕陽が、ページの上の文字を金色に染めていた。

あかりは分厚い医学書を広げ、息を詰めるように読み進めていた。机の上にはノートとペン、鉛筆、ルーペが無造作に散らばる。今日のテーマは――肛門括約筋と歯状線。


「ふむふむ……肛門管の長さは約3〜5センチ。内肛門括約筋は平滑筋で不随意に働き、外肛門括約筋は骨格筋で随意に動かせる……」


ページを指でなぞりながら、あかりはノートに図を描く。円筒形の管状部分、その壁面に並ぶ筋肉を円形の帯で表す。


「なるほど……内と外の二重防衛システムね……完璧すぎる……!」


さらに視線を下に移すと、次の項目が目に入った――


——歯状線(Pectinate line / Dentate line)

肛門管の内側と外側を分ける境界線。上部は内臓性神経支配で痛みを感じにくく、下部は体性神経支配で痛みを感じやすい。


「こ、これが……境界線……!?」

イラストをじっと見つめると、線はギザギザと上下に尖り、まるで銀河の衝突面のように見える。あかりの目に、歯状線はブラックホールの事象の地平線のように映った。


(ここを越えたら別の宇宙……いや、別の時空……!?)


妄想のエンジンが点火する。机の上のペンが小さく震える。あかりは手を握り、呼吸を整え――


「想像するだけで、肛門括約筋をプローブで通過するときの抵抗がわかる……!」


頭の中でシミュレーションを開始する。プローブが外肛門括約筋に触れるとき、ゴムのリングを押し広げるような弾力。内肛門括約筋の手前で微かな抵抗を感じ、少し力を入れると筋肉がゆっくり開いていく。


(ここを抜けたら、そこは未知の領域……歯状線の向こう側……)


ページを見ながら、あかりは自分の手元をイメージで置き換える。プローブが筋肉を押し広げるたびに、「ビリッ」と微弱な痛覚の電流が走る。歯状線を超えた瞬間、視界がぱっと開け――


「スコーン……!!」


タイムマシーンがワープする瞬間の嵐のように、あかりの頭の中で銀河が渦巻く。背筋に電流が走る。まるでドラ◯もんのタイムホール、あるいは『バック・トゥ・◯・フューチャー』の稲妻が放つ時間の裂け目を通過する感覚だ。


(こ、こ、これってタイムホールそのものじゃない!?)


ノートに図を描く手も止まらない。外肛門括約筋のリングを描き、その奥の内肛門括約筋を重ね、歯状線を境に上部と下部の性質を色分け。ギザギザの線の上に小さな突起を描き込み、肛門柱と肛門洞も星雲のように表現する。


「この境界線を越えれば、痛みも感覚も、ルールも、全く異なる別宇宙……!

 私の肛門宇宙論は、ここで一気に時間と空間の概念まで飛ばせる……!」


あかりは立ち上がり、机の上で腕を大きく振る。まるで操縦桿を握った宇宙飛行士。美咲が隣で静かにため息をつく。


「……あかり、落ち着いて。見てるこっちが目眩するわ」

「違うの、美咲! これはタイムワープ……時間の流れが変わる瞬間を、肛門で体験してるのよ!!」


ページを指差すと、そこにはヒューストン弁や肛門管、肛門柱が描かれ、あかりの妄想はさらに加速する。


(あ、ああっ……この小さな半月状の弁も、便流を制御するだけじゃない……

 時間の流れの制御装置かもしれない……!)


彼女の頭の中で、直腸は銀河系、ヒューストン弁は月、肛門柱は星団、肛門洞は暗黒星雲となった。プローブの進行は流星群の移動とリンクし、歯状線を越えれば、そこは観測不能な宇宙――時間の流れも一変する別世界だ。



ふと、あかりはページの余白に書き込みをしながら思い出した。


(そういえばこの前、肛門腺のことを調べたとき……直腸腺って名前も出てきてたっけ……?)


指でページを戻すと、小さな項目が目に入った。


——直腸腺(Anal/Rectal glands)

直腸の粘膜に存在し、潤滑のための粘液を分泌する。便の通過を助け、排出を円滑にする。


「な、なにこれ……! 肛門腺より、直腸腺の方が分泌量は圧倒的に多い……!?」

声を潜めながらも、瞳がぎらりと輝く。


ノートの片隅に新しい式が書き殴られる。

《直腸腺 > 肛門腺》


(そうか……肛門腺は補助。でも本当の主役は直腸腺……!

 歯状線より“内側”で潤滑を発生させるから、便が外に出るときに痛覚ゾーンをスムーズに通過できる……理にかなってる!)


しかし、次の瞬間、眉がひそめられた。


(でも逆の場合は? 外から内へ侵入するなら……?

 痛覚ゾーンを先に突破しなきゃいけないのに、潤滑はその後から発動する。

 これって順番が逆じゃない!?)


ページの図をにらみつける。

歯状線の上下、痛覚神経の分布、腺の位置――すべてが彼女の脳内で銀河地図に変換されていく。


(出口としての設計は合理的……でも入り口として考えると、どうしてこんな仕組みに……?

 もしかしてこれは……センサーが外敵を誤認したときだけ、特例で通過を許すプログラム……!?)


手が震え、ノートの余白に殴り書きが続く。


《肛門は出口であり、入り口ではない》

《だが時に、宇宙は逆行を許す》


あかりの瞳は夕焼けよりも赤く燃えていた。


「……やっぱり、肛門には宇宙がある。時間も、空間も、そして“順番の逆説”さえも……!」


美咲は思わず吹き出すが、あかりは気づかない。

ノートには赤・青・黄の三色で歯状線の図が塗り分けられ、そこから矢印が四方八方に伸びていた。


「これこそが肛門宇宙論の真髄!

 直腸腺と肛門腺、そして歯状線の痛覚の逆説……すべてを結べば、必ず新しい扉が開く……!」


外では、夕暮れに染まる校庭。

静かな図書室で、あかりは今日も肛門を通じて宇宙と時間の秘密にアクセスしていた。

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