第19話 便座コスモスの玉座

 日曜の午後。星野あかりは、昼食を終えるとトイレへと向かった。

 別に腹を壊したわけでも、便秘でもない。

 ただ――今の彼女にとって「便座に腰掛ける」という行為は、研究の延長だった。


(ふっ……この日を待っていた……!)


 そう心の中でつぶやきながら、彼女は厳かにドアを閉める。

 便座の前に立ち、両手を胸の前で組み合わせた。


「いざ――搭乗!」


 ゆっくりと腰を下ろす。

 その瞬間、あかりの脳内に「ドゥーン」という荘厳な効果音が鳴り響いた。


(うぉおおお……! やっぱりこの感覚、ただの椅子じゃない……。

 これは……宇宙船のコックピット! 肛門というワームホールを制御する、至高の玉座!!)


 両目を閉じると、視界に銀河が広がった。

 便座の楕円のカーブは惑星の軌道を描き、便器の深淵は漆黒のブラックホールのごとく口を開けている。


 陶器の表面は白く輝き、まるで氷惑星の氷床のように光を反射する。

 ヒーターの熱は赤色巨星の表面温度。

 ウォシュレットのノズルはレーザー砲台にすら見えてきた。


(そうか……! 人類は気づいていないだけで、すでに毎日ワープ航法を実践しているんだ!)


 あかりの鼻息が荒くなる。


――


(考えてみれば、便座の歴史こそ文明の歴史……!)


 原始の人々はただ地面にしゃがむしかなかった。

 だが石を削り、木を組み、やがて「腰をかける場所」を発明した。

 古代ローマでは大理石の公衆便所が整然と並び、人々が肩を寄せ合って談笑しながら用を足していた。

 王侯貴族の時代には黄金や宝石で装飾された便座が造られ、そこは「王権の象徴」でもあった。


(つまり! 便座は進化の象徴……人類がどれだけ快適に、どれだけ尊厳を保ちながら肛門と向き合ってきたかの記録そのものなんだ!)


 そして未来。

 浮遊型の便座が重力制御を備え、宇宙船の中でクルーを迎える。

 便座AIが搭載され「お疲れさま」と声をかけてくれる時代が来るだろう。

 いや……すでに日本のハイテク便座は、その入り口に立っているのだ。


(便座とは文明の縮図……! 人類の歩みそのもの……!)


 便座の冷たさすら宇宙の冷気。

 便座の温もりは太陽の恩寵。


 その境地に到達したとき、あかりの胸は打ち震えていた。


「便座とは……小宇宙(コスモス)だぁぁぁ!!」


 突如として叫び、トイレの壁に声が反響する。


「ちょっとあかり!? なに叫んでんの!?」

 廊下の向こうから母の声が飛んできた。


「ひゃああああっ!! ち、違うの! 今のは……祈りの言葉っ!!」


「トイレで祈らないで! 早く出なさーい!」


 慌てて口を押さえるが、胸の鼓動は収まらない。

 便座に座ったまま、彼女はポケットからノートを取り出すと必死に書き殴った。


《便座=玉座説》

《肛門ワープ航法》

《人類史は便座史である》


 インクがにじむほどの勢いで走り書きを続ける。


(これをまとめれば……きっと眞鍋くんにも勝てる……!

 いや、それどころかノーベル便座賞を受賞してしまうかも!!)


 勝手に表彰台に立ち、便座型のトロフィーを掲げる自分を想像して赤面する。

 トロフィーの中央には、黄金に輝く便座が鎮座し、周囲を銀河の螺旋が囲んでいる。

 観客席からは「便座!便座!」と大合唱。

 カメラのフラッシュが星々の瞬きのように光り輝いた。


――


 しかしその時、便座が「ミシッ」と音を立てた。


「ひぃっ!? ま、まさか……私の妄想エネルギーが便座を壊しかけてる!?

 やっぱりこの玉座、ただ者じゃない……!」


 あかりは両手を合わせ、深々と頭を下げた。


「ごめんなさい……ありがとう……便座様……!」


 こうして彼女はまた一歩、誰も知らない宇宙の深淵へと近づいていくのだった。

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