第3話

残された痕跡


雪を蹴って大通りを駆け抜け、ようやく人気のない裏路地に身を潜めた。

白い息が荒く吐き出され、胸が激しく上下する。

爪の先にはまだ、人間の温もりが残っていた。


「ふん……馬鹿馬鹿しい。俺は、ただの黒猫だ。」


そう言い聞かせながらも、胸の奥が落ち着かない。

思い返してしまうのだ。あの少年の声。


――「僕ら、よく似てるね。」


不思議な言葉だった。

俺と人間が似ている? そんなはずがない。

だが耳の奥に焼き付いたその声は、どうしても振り払えなかった。


苛立ちにしっぽを大きく振ったとき、ふと足元に紙切れが落ちているのに気づいた。

雪に濡れた小さな一枚。拾い上げるように前足で押さえると、それはスケッチブックの切れ端だった。


そこに描かれていたのは、鉛筆の荒い線で描かれた黒猫の姿。

大通りで、ほんの一瞬しか見せていないはずの俺の横顔。

走り描きなのに、その目はしっかりと俺を映していた。


「……これは。」


胸が高鳴るのを止められなかった。

紙の上にあるのは、たしかに俺だった。

孤独で、冷たい夜を歩く存在。

それを、あの少年はほんの少しの時間で捉えていたのだ。


俺は思わず口を引き結び、紙をくわえた。

湿ったスケッチの感触が舌に広がる。

なぜこんなものを持って帰ろうとするのか、自分でもわからなかった。


路地を歩きながら、耳に残る声が再び蘇る。


――「今晩は、素敵なおチビさん。」

――「僕ら、よく似てるね。」


その声は、冷たい夜気を少しだけ温めていた。

満ち足りたものではない。

むしろ、胸の奥をざわざわとかき乱す、不安定な温もりだった。


「なんだってんだ……俺は馬鹿か。」


そう吐き捨てるが、鍵しっぽは勝手にくるりと揺れていた。

俺は誇りのしっぽを高く掲げながらも、口にはそのスケッチをしっかりと咥えていた。

まるで、それが俺にとって大切な宝になってしまったかのように。



その頃、少年はまだ大通りに立ち尽くしていた。

腕の赤いひっかき傷を見つめながら、痛みよりも強く残っているのは猫の体温だった。


「……冷たい目をしてるのに、不思議だな。ほんとに、僕に似てる。」


彼はそう呟きながら、落ちたスケッチブックを拾い上げる。

ページの端は雪で滲み、描きかけの猫の姿が震えて見えた。


なぜ自分はこんな寒い夜に、街の隅で絵を描いているのか。

答えは一つだった。


――絵を描くことでしか、自分を確かめられないから。

――いつか、本物の絵描きになりたいから。


少年の夢は、絵に生きること。

だが現実は厳しく、彼の絵はまだ誰にも認められない。

だからこそ、目に映ったものを必死に描く。

誰かに見せるためではなく、自分の存在を残すために。


「君も、僕と同じなのかもしれないな……孤独で、でも消えない形を探している。」


雪にかすれる吐息とともに、その声は夜に溶けていった。

少年の視線の奥には、追い払われてもなお消えない興味と、微かな温もりが灯っていた。

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