第33話:逆立ちの黄昏、重なる影

 空は明るかった。

 風も、土も、息づいている。


 ハロルドは完全復活していた。

 そして今、いつものように、逆立ち。


「ちょっと、バランスが悪いんだけど! 支え方、鈍ってんじゃないの?」

「うるせえ、黙って進め」

「うわ、労わる気持ちがなさすぎる。ハラスメントで訴えてやる」

「好きにしろ」


 言い合いながらも、手のひらから光が広がって、大地が色づく。何十回としてきた、この逆立ち。腕はきついし、頭はしびれるし、息は上がるし。ハードすぎる。それなのに、逆立ちをしているのは、たぶん、好きだからだろう。この時間が。


 アメリアは少し笑った。

 土の匂い。風の温度。支えられている感覚と、支えている感覚が同時にある不思議。自分の中で何かが整っていく音が、確かにした。


 その日の作業が終わるころ、畑に来ていた人たちは一人、また一人と帰っていく。

 影が長く伸び、虫の声が混じりはじめる。

 夕陽は橙を深くしていき、風が少し冷たくなる。

 アメリアとハロルドだけが、畑に残った。


 今日も、いい一日だった。

 これがずっと続くことを、アメリアは素直に祈った。


 ハロルドが近づいてくる。寝癖は相変わらずで、前髪の端に泥がついていた。


「ほら、ここ汚れてる」


 アメリアはつま先立ちになって、指でそっと泥を拭った。

 指先に触れた髪は、思ったより柔らかい。


「お前さんも」


 ハロルドが、アメリアの前髪に手を伸ばす。

 反射で、アメリアは目をつむる。


 唇が触れた。


 風の音が遠のき、世界が静かになる。

 微かなコーヒーの匂い。

 触れているところだけが熱くて、痛いほどやさしい。

 長くはない。けれど、短いとも思わなかった。


 離れる。

 夕陽が、二人の影を重ねる。


 アメリアはゆっくり目を開けた。

 何も言えなかった。言葉より先に、胸が満たされていく。


 ハロルドは視線をそらさず、少しだけ口の端を上げた。

 それだけで十分だった。


 アメリアは空を見上げた。

 世界を知らなかった。こんなに光の色が変わることがあって、こんなに空気が冴えることがあって、こんなに胸が満たされるなんて。

 そして、心のどこかで願った。


 ――どうかこの景色が、ずっと続きますように。


 風がまた、静かに吹いた。

 二人の影が重なって、長く伸びていった。


 恋の病は、悪くない。逆にね。



<『バカは風邪ひかない』 完>

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逆立ち 逆張り お嬢さま!〜 逆さの庭で、世界は息をする。 彗星愛 @susei-ai

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