ページの隙間に咲く声

朝凪るか

第1話

放課後の図書館は静寂に包まれている。

図書委員の当番で週三回ここに来るようになって半年。利用者の顔ぶれもすっかり覚えた。

三時半に現れる一年の男子は漫画コーナーへ直行。四時頃の同級生は参考書を数冊借りて足早に帰る。

そして三時十五分。時計の針が指すその瞬間に必ず現れる人がいる。

肩に届くストレートの髪、紺色のカーディガンを羽織った二年生。奥の窓際、一番静かな席で古い文庫本を読んでいる。

不思議なことに、その先輩は読み終わると必ず同じ場所に本を置いていく。返却カウンターではない。文学コーナーの端、「み」の書架の前にある小さなテーブルの上。

最初は返却し忘れかと思った。でも翌日確認すると、本は必ず元の場所に戻っている。

今日もその先輩がいた。『夜のピクニック』のページをめくる手がゆっくりと止まり、小さくため息をつく。一時間ほどして席を立つと、例の場所に本を置いて静かに帰っていく。

先輩の後ろ姿が見えなくなってから、私はその本を手に取った。

何気なくページをめくると、栞代わりに小さな紙片が挟まっている。

『この本、三回目だけど毎回違う場面で泣いてしまう。今日は貴子の手紙で涙が止まらなかった。—M』

丁寧な字で書かれたメモ。Mは先輩のイニシャルだろうか。

私もこの本が好きだ。確かに貴子の手紙は切ないけれど、私なら最後の場面で泣いてしまう。

迷ったが、小さな紙片に感想を書いてみた。

『私は融のお母さんが登場する場面が一番好きです。家族の温かさに胸が熱くなります。—R』

本に挟んで、元の位置に戻した。

翌日の放課後。先輩は『きみの友だち』を読んでいる。

いつものように本を置いて帰った後、急いで確認すると今度も小さなメモが入っていた。

『昨日の感想、読ませていただきました。融のお母さんの優しさ、私も心に残っています。Rさんもきっと温かい方なのでしょうね。—M』

鼓動が跳ね上がる。読んでもらえていた。

『きみの友だち』も以前読んだ本だ。恵美の心の変化が丁寧に描かれていて印象深かった。

『恵美の気持ちの変化に共感しました。友達関係って複雑ですね。でも本を通してMさんとこうして気持ちを分かち合えて、私はとても嬉しいです。—R』

メモを挟んで本を戻す。この静かな交流が、いつの間にか一日の楽しみになっていた。

それから毎日、見えない糸で結ばれたような対話が続いた。

『博士の愛した数式』では:

『数学は苦手ですが、博士の純粋な愛情に心打たれました。記憶は消えても、愛は永遠なのですね。—M』

『私も数学は苦手です!でも何かを純粋に愛し続ける心って美しいなと思いました。—R』

『アンと青春』では:

『アンの前向きさにいつも励まされます。落ち込んだ時の特効薬のような本です。—M』

『分かります!アンみたいに日常を魔法に変える力、憧れます。Mさんにも辛い時があるのですね。—R』

『誰にでもあることです。でもこうして本の話を分かち合えるようになってから、毎日に小さな光が灯ったような気がしています。—M』

そのメモを読んで、胸の奥が温かくなった。同時に小さな寂しさも感じていた。こんなに心が通じ合う人なのに、言葉を直接交わしたことは一度もない。

ある日、いつものように先輩がやってきた。でも今日は様子が違う。本を読みながら、時折私の方へ視線を向けている。

本を返しに立ち上がった時、私と目が合って小さく会釈してくれた。

急いで例の場所を確認すると、本ではなく折りたたまれた便箋が置いてあった。

『いつも心のこもった感想をありがとうございます。実は、Rさんがどのような方なのかとても気になっています。もしご迷惑でなければ、直接お話しできませんでしょうか。明日の放課後、文学コーナーでお待ちしています。—美月』

美月さん。Mは美月の頭文字だったのだ。

翌日の放課後、胸が激しく鼓動している。

文学コーナーに足を向けると、先輩が一冊の本を手に立っていた。

「あの、Rさんでしょうか」

「はい。りさです」

「美月と申します。やっと、お話しできますね」

想像していたよりもずっと親しみやすい笑顔だった。

「ずっと気になっていたんです。どんな方があのような素敵な感想を書かれるのかと」

「私もです。美月先輩の文章、いつも心に響きました」

それから私たちは本について語り合った。好きな作家、心に残った場面、これから読んでみたい作品。共通点の多さに驚き、違いを楽しんだ。

気づけば図書館の閉館時刻になっていた。

「また明日もお話しできるでしょうか」

「ぜひ。今度は直接」

美月先輩が微笑んだ。

帰り道、西日が校舎を橙色に染めている。

本を介して始まった出会いが、今日から新しい形になった。あの静かな文通のような時間も、きっと忘れられない大切な思い出になるだろう。

私たちの間には今、本だけでなく生きた言葉がある。

そのことが、とても嬉しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ページの隙間に咲く声 朝凪るか @tomoru_09

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ