滅びの夜に君の名前を呼ぶ  -異世界で勇者になれなかった僕、魔王に拾われて溺愛されてます-

豆茶*

第一部

プロローグ

「逃げたぞ! 追え!」


 誰かの怒声が背後から聞こえてくる。大人しく死んでおけば、苦しまずに済んだかもしれないのに。


 なのに、僕は本能的に走り出していた。


 その根底には、生きたい、という切実な願いがあった。


 まだ死にたくなかった。


 生きて何かを成したいとか、誰かのために生きたいとか、そんな高尚な気持ちはなかった。


 ただ、泥臭く、意地汚い生への執着だけがそこにあった。


 ヒュンッと音が鳴ったかと思うと、少し先の木に矢が刺さる。手当たり次第に矢を放って当たれば儲け物とでも考えているのだろう。


 僕は泣きたくなる気持ちをグッと堪えて、森の中を走り続ける。舗装されていない道を進むのに慣れていない僕は、何度も転びそうになった。もしも、あいつがそばにいたら、鈍臭いやつと言って笑ったに違いない。


 だけど、そんなあいつも今ではあちら側の人間だった。


 今ここにはきていないようだったが、勇者として祭り上げられた僕の親友は、まるで僕のことなんて忘れてしまったように過ごしている。もしも覚えていてくれたなら、少しでも気をかけてくれていたなら、幽閉された僕の元に来てくれていたはずだ。


「探せ! どうせそう遠くには行っておるまい!」

「絶対に逃すな! 生け捕りが難しければ、殺してしまってもかまわん!」


 どこからか聞こえる怒鳴り声に、僕の体は恐怖で震える。足がもつれて倒れ込みそうになったが、なんとか足を前に進ませる。


 どうして、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか。



 ――自分にも特別な力があったなら。


 もしもそうなっていたら、こんなふうに命を狙われることもなかったのかな。



 勇者になれなかった僕は、勇者になったあいつと違って、ゴミを捨てるように捨てられる。


 無心で森の中を走っていると、その先に道はなかった。


 まるで神様が、ここで終わりだと、諦めろと言っているようだった。


 僕は悔しい気持ちを胸に、大きく息を吐き出した。後ろから迫る声は徐々に大きくなっている。こんな絶体絶命な状況なのに、心の奥底ではまだ生きたいと強く渇望している。


「……たい…………生きたいっ! まだ、死にたくない!」


 みっともなく涙を流しながら、僕は抑えきれなくなった感情を爆発させる。


 そのとき、視界の端に黒い羽がひらりと舞った。


 まるで、僕の言葉に答えるように、それは現れた。


 ハッと目を見開くと、僕よりも高いところに、空に浮かんだその人がいた。


 真っ黒な翼が、僕のことを包み込むように背中に回る。


「生きたいのか」


 低く、腹の底に響くような低音が、耳に馴染んだ。

 長い黒い髪を揺蕩わせ、髪の毛の隙間から見える血を溶かし込んだような真っ赤な瞳が、まっすぐ僕を見ている。


 ――選べ。自分で掴み取れ。


 その瞳はそう言っているようだった。


「……っ生きたい! 僕は、まだ! 死にたくない!」


 僕はとの人の胸に飛び込むように、両手をその人の首に回した。そして、この機会を逃すまいと、必死にしがみついた。


「そうか――なら、その願い、叶えよう」


 その人は僕の腰に手を回し、しっかりと抱き上げると、大きな漆黒の翼を羽ばたかせた。


 そして、攫うようにして、僕を彼の住処に連れて行ってくれたのだ。

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