記録的アニキ
梶田向省
記録的アニキ
玄関をくぐると、兄は、目の前の階段で縄跳びをしていた。どうやら二重跳びに挑戦しているようだが、段差に縄が当たって何度も引っかかり、上手くいかない。疲れていた私は、その滑稽な騒々しさに無性に腹が立って、大きく舌打ちを響かせた。
「一也、どっか外でやってよ、近所迷惑」
兄は胡乱な目つきで、私の顔を黙って見つめていた。そうだった。忘れていた。彼は、あと一週間は喋らない。確か、そういう宣言だったはずだ。まったく馬鹿馬鹿しい限りだが、呪いのような戒めを律儀に守り抜いているらしい。
負け比べと言わんばかりにその場に立ち尽くしていた兄だったが、丸一分も立った頃に、大きなため息を吐いて家を出ていった。子どものように、縄跳びを握りしめて。
角の突き当りの公園で、「記録」に挑戦するのだろうか。知ったことではない。私は部屋で勉強をするために階段を登った。兄が残していった他の縄跳びが散乱していて、苛立ち紛れに踏みつける。
兄が、世界一の称号を得たのは、三年前、私が高校一年生の時のことだった。彼は大学を出て、それなりに名の知れた食品メーカーに就職したばかりだった。
私達には結婚して家庭を持ち、六歳の息子を持つ姉がいた。私達からすれば甥に当たるその子が、行きたいイベントがあるというのだが、ちょうどその日に、姉に予定がが入ってしまったというので、私と兄が子守を頼まれた。そういう流れだった。
わりと規模の大きい複合型イベントだったことは覚えている。甥の目的がなんだったのかすら忘れた。とにかく重要なのは、兄があるイベントに参加したという事実である。
兄に、電話で呼び出された記憶がある。中央の大きなステージに来い、と命令形で言って通話状態が途切れた。
わけのわからないまま、兄に呼び出されてやってきたステージでは、「豆つかみ大会」が開催されていた。壇上には机がいくつも並び、それぞれの机の上には、箸が一膳と皿が二枚、セットで置かれている。
豆つかみ。同じようなものを小学生のときにやった覚えがある。素早い箸さばきで、皿から皿へ。三十秒間で、いくつの豆を移動できるか。確かそんな遊びではなかったか。しかし、まったく兄とのつながりが見えてこない。
「本日はですね、参加者の皆様で競っていただくだけでなく、世界記録を目標とする、ということでございまして、お呼びしております。ビネス世界記録認定員の野々宮由紀恵さんです!」
司会者が高らかに叫び、呼び込むと、袖から特徴的なユニフォームの女性が出てきた。胸のところにプリントされたロゴは、確かに見覚えがある。ビネス世界記録。各種様々な分野において、世界記録を認定してくれる団体。ビネス世界記録の年鑑は、小学校の図書館で大人気だった。
「それではいよいよお待ちかね、有志にて募った、十一人の参加者の皆さんに入場していただきましょう!」
勇壮な音楽とともに、参加者がステージの左右から現れた。彼らの面々は、十人十色で、年齢層もかなりばらけているようだ。
その時、甥が声を上げた。
「あー! かず兄ちゃんだ!」
見れば、参加者の中に、兄がいた。私の八つ年上、久保寺一也、二十四歳。まごうことなき兄である。彼は、右から数えて三番目の席に、さっそうと座った。
薄々考えてはいたが、まさか本当にこの競技に出るとは。率直に、無謀だ、と感じたが、そこで思い直す。兄は、一也は、パズルや塗り絵などの細かい作業が得意で、かつ好んでいた。器用と言ったほうがより正確か。母がよく、「一也は、三歳で箸の使い方を覚えたんよ」と、自慢げに話していたのが頭をよぎる。
――イイ線は、行くんじゃないだろうか。優勝とまではいかずとも。
司会者が、ルール説明を始める。内容は、おおむね私が知っているものと同じだった。
「では、早速ですが、始めたいと思います。位置について」
ヴィーという甲高い電子音が鳴り、それが号砲だったのか、参加者が一斉に箸を取った。豆を移動させるチャコチャコという音だけが響き渡り、観客は固唾をのんで見守っている。
気づけば大きな電光掲示板が設置されており、三十秒までのカウントがみるみる減っていく。私の脇にいる甥も、真剣な目をして一也を見つめていた。
私は思った。短い。三十秒はひどく短い。あっという間にカウントは残り五秒を切っていた。ここからでは参加者の手元は見えにくく、誰がリードしているのかすら把握できない。いや、展開が読めないからこそ盛り上がるという意味では、大衆向きなのかも知れなかった。
兄は、かつてないほどに全力をかけて、この勝負に臨んでいるようだった。瞳の輝きがこれまでとは明らかに異なる。何より、あんなにきびきびと何かを行う兄を見たことがなかった。
と、ちょうど残り一秒を切ったあたりで、彼は突然箸を置いた。一瞬の動作だったし、勝負も大詰めの瞬間だったから、他に気づいた観客は少なかったかもしれない。
何をしているんだ。勝負を放棄したのか?
疑問を抱く暇もなく、ヴィー、ヴィー、ヴィー、と連続で電子音がなり、無慈悲に競技終了を告げた。
「終了ー! 競技終了です! 各自箸を置いて!」
司会者が、ここぞとばかりに力のこもった宣言を終えると、スタッフが散って、記録を確認する。最後に、認定員によるチェックが済むと、あれよあれよと結果発表の運びになった。
「それでは発表します。本年度馬場サマーフェスタ、第一回豆つかみ大会の優勝者は――」
司会者の男は、素質がなかったのかもしれない。ほとんど「溜め」を作ることなく、まるで口を滑らせたかのように、さらっと優勝者の名前を言った。
「九番久保寺一也さんです! こちらへお進み下さい!」
私は、素直に意表を突かれ、感情のままに拍手をした。結果を残すことは予想していたものの、まさか優勝まで辿り着くとは思ってもみなかった。皆の視線を浴びる兄の顔も、今日初めてほころんでいる。
ぱらぱらと拍手が巻き起こったが、司会者の演出不足のせいか思ったより広がらない。
「そして、世界記録の方なんですが……こちらは、認定員の野々宮さんに発表してもらいましょう」
野々宮さんが、マイクを持って中央に進み出る。横に立つ兄の表情は、なんの変わりもない。おそらく、ほっとして気が抜けているのだと思う。世界記録など無理だという諦めの色も含まれているのかも知れない。
「実は久保寺さんの記録ですが、スタッフが用意した豆の個数を上回るものだったということでした。よって彼の記録はベストなコンディションで挑んだものだと言い切れませんので、その点はご承知おき下さい」
「これに関しては、完全にこちらの不手際でした。申し訳ありません」
司会者も加わって頭を下げる。どうりで、兄が手を止めたわけだ。もう、つまむ豆が残っていなかったのだから。
「では改めて、久保寺さんの記録が現在の世界記録を更新するものなのか、結果をお伝えしたいと思います。世界記録は二十五個です。久保寺さんの記録は――」
野々宮認定員は、しっかり演出の重要性を理解していた。たっぷりと間を取った後で、続ける。ゆっくり口を動かす。
「――二十七個でした。世界記録です! おめでとうございます!」
わっ、と会場が沸いた。兄が目をしばたたかせる。私も耳を疑った。世界記録? そんなバカな。
シンプルに縁取られた透明の額縁。世界記録の認定証を持つ兄の姿が脳裏に焼きついている。後から追いついてきた緊張に、引きつる笑顔。
せいぜい地方の新聞にしか載らないような、小さい出来事ではあったが、その日間違いなく、久保寺一也は世界一になった。
世界一になってから、兄の人生の歯車は狂ってしまった。
「俺、世界記録に興味出てきちゃったなあ」などとこぼし、世界記録の年鑑二十年分ほど買い込んできたのは、まだ序の口だった。あの時点で私は、違和感を抱くべきだったのかもしれない。
私の高校卒業と、兄の昇進・異動が重なったので、私はしばらく兄の新居に住まわせてもらうことになった。生活の目処がつくまでは居候させてもらい、そこから大学に通うという話だった。
兄の狂人具合は日に日に増していき、おかげで私は多大なる迷惑を被ることになる。
時間さえできれば朝も晩も、年鑑を恍惚とした表情で眺めている兄の姿には、さすがに薄気味悪さを感じはじめていたが、それがどこまでエスカレートするのか、私のスケールでは考えが及ばなかったようだ。
昨年、私が大学二年生に進級した年に、兄は会社を辞めた。失業手当も加算されて、退職金は余分にもらうことができたが、それでも、何年も食っていく分には到底足りない。
居候させてもらっている立場なので、あまり強くは言えなかったが、私が不満を抱かないはずがない。兄は、試供品のモニターなどをしたり、退職金を少しずつ削ったりして小金を稼ぎ、とりあえず自身の、当面の食費を工面する計画はたてているようだが、いかんせん不安定なのでいずれ頓挫するだろうと私は踏んでいる。それに、私の食費を負担してくれようという気はさらさらないらしい。
家賃や光熱費などの諸々は、なぜか私が払う流れとなった。そこまで高いアパートではないので今のところ何とかなっているが、私の一日のスケジュールから講義とアルバイトの時間を差し引くと、もう何も残っていない。
これでは一人暮らしと変わらない。それどころか、兄の分の家賃と光熱費まで負担しているので、もはやこの家に留まる理由は何もないのだが、憧れのマンションを借りるために貯めていた費用は、既に家賃に使ってしまっていた。
これはやっぱり、おかしい。
突如ニートに変貌した彼が、家で謳歌しているのは、世界記録への挑戦だった。百円ショップで色々なアイテムを買い込み、記録を更新するべくおかしなことをやっている。例えばそれは、石鹸を積み上げる最速タイムであるとか、トイレットペーパーを短時間で引き出す最速タイムと言ったような、たいていくだらないものだった。
珍しく日雇いのアルバイトなどに行ったかと思うと、賃金で安い食品(トマトや、クッキーなど)を大量に購入して、無言で早食いに取り組んだりする。何度も、トイレで吐いているのを見かけた。
ときには、自分で記録だと思えるものを残し、自ら申請することもある。記録の達成が証明できるもの、数値化できるものなど、様々な規定があり、なかなか審査に通らないようだった。
野々宮認定員とはすっかり顔見知りになり、幾度も家に招いて記録達成を共に目指しているようだった。
結果として現在、豆つかみの他に兄が持っている記録はないらしい。
人の努力を否定する気はない。しかし、進むべき方向を間違えている努力には、物申したい。金にもならず、人に迷惑をかけるだけの取り組みは、いかがなものか。所詮、馬鹿げた過去の栄光にすがっているだけなのだ。
私は、兄に対する自分の態度が徐々に冷たくなっていくのを自覚していた。仕方のないことだと思った。彼は甚だしく頭がおかしい。人に何も与えないし、残さない。同情の余地はない。
縄跳びの件からおよそ一週間後に、兄はようやく口を利くようになった。「無言で過ごした最長期間」というチャレンジは、どうやら喋っていないことを証明できなかったようで、徒労に終わったという。私は内心、嘲笑った。
「もっとさ、証明できる記録を目指したらいいんじゃない? 例えば、皆勤賞的な? 会社連続勤務日数世界一とかさ」
朝食の席で、からかいと嫌味をこめてそう話すと、兄は予想外にも身を乗り出してきた。
「確かにね、俺も思ってたんだよ。証明の方法が不確実だと、無駄骨を折るし時間の浪費でしかない」
「うん、そうだ」
取るに足らない。世界記録に狂ってからずいぶんと寡黙になった兄だが、こういうときに限り早口になる。うっすら、嫌悪感さえ覚えるほどだったが、ふざけて返事をする。
「じゃあさ、ちょっと友恵にも協力してほしいことがあるんだけど」
は。いや、いや、いや。
「絶食の記録なら、医者に胃を調べてもらうことで証明できると思うのよ。でも、世界記録は三百日とかで不可能だから、俺、『兄妹で絶食をした最長記録』ってのを打ち立てたくて」
気づけば、私は兄を突き飛ばしていた。兄は、椅子ごと後ろに倒れ込む。頭に血が上って、感情のままにわめき散らす。
「は? ふざっけんなよ。お前、ただでさえ働きもしねえで下らねえことばっかやって、人間のクズなのに、私まで危険なことに巻き込むのか。私に家賃とか全部払わせて甘い汁吸って、それでもまだ足りねえのかよ。そんな気持ち悪いこと付き合えるか。身の程わきまえろニート野郎」
玄関のドアを後ろ手に、力に任せて閉め、家を飛び出した。怒りが収まらず、居ても立ってもいられない。こんな家など出ていってやる、と思った。金など貯まっていなくてもいい。そうだ、就職さえできれば、ローンを組んでマンションを借りられる。
ひどい体たらくの兄を、逆に利用してやればいい。人間の最底辺をモチベーションに、私は華々しい社会人デビューを飾るんだ。
その日から、私は俗に言う「就活」を始めた。自己分析を繰り返し、好感度の高い履歴書の書き方を研究した。今度は、私が、兄とは口を聞かない番だった。彼から話しかけられることがあっても徹底的に無視をした。自分のことに打ち込み、兄と距離を取ることで、彼との社会的差異が広がっていく気がして、楽しくて仕方がなかった。
私はよくできた人間。兄は気が狂った落ちこぼれ。
気がつけば一年が過ぎていて、就活も本格化する時期に突入した。
企業説明会の類いには参加しなかった。名のある一流企業だけを選んで受けた。それほどまでに自信があった。だって見てみろ。あんなにダメな人間がいるのに、まっとうに生きている私が、受からないはずがない。
面接もすべて手応えを感じたし、受けた数だけ内定がもらえることもありえる、と思った。大学での最後の夏は、遊びに遊んだ。家にもほとんど帰らなかったので、何かの折に忘れ物を取りに戻った際、水道料金やガス料金の督促状がポストに大量に差し込まれていて笑った。あの男は、一人ではろくに生活もできないのか。
「誠に残念ながら、今回はご期待に添えない結果となり――」
待ってくれ。嘘だろう。私はすがるような気持ちでメールの文面を読み直したが、やはり不採用の通知に違いなかった。これで、受けた企業は全てだが、内定はゼロ。もれなく不採用、「全落ち」というやつだった。
何がいけなかった。私はあんなにもまともな人間なのに、兄でさえ大企業に就職できたのに、なぜ私が。
黒黒とした街を歩き、久々に家路についた。夜がこんなに暗かったものかどうか、自信が持てない。何をする気にもなれなかった。今から対策をしたところで、どこの企業も募集を打ち切っているので、今年度はもうどうにもならない。
アパートはどうしよう。水道もガスも止められているはずだし、バイトで貯めたお金は夏に散財していた。兄はどうしただろうか。死んだのか?
私は、這い上がれないのではないか。
ずっしりと重い身体を動かし、ようやく玄関のドアを開けた。そこで違和感に気づいた。先週に来たときには、そこかしこに物が散らばり、足の踏み場もないような状態だったが、それが今ではすっかり片付いている。唯一、共通するのは兄の姿が見当たらないことくらいか。まさか、夜逃げでもしたのか。
お茶の間に足を踏み入れると、どうも夜逃げでもなさそうだった。すっきりとした机の上に、何か置かれている。構図は夜逃げそのものだ。
近づけばそれは、一枚の写真と手紙だった。その写真を見て私ははっとする。野々宮認定員と、例の認定証を持つ兄の姿。このアパートの前で撮られた写真だ。昔のものではない。
目をこらせば認定証には、「豆つかみ」とある。まさか。自分で、自分自身の過去の記録を更新したというのか。私は、豆つかみ大会があった当時、兄の記録がスタッフの予想を上回ってしまったことを思い出した。存分に挑戦できる場を与えられれば彼は――。「二十九個」とある。
手紙は短く、簡単な内容だった。「友恵へ。俺、働くよ。今までごめんな。皆勤賞で世界記録を目指します笑」
兄が、自分自身の記録に挑戦するに至った経緯は、分かる気がした。それはおそらく、「世界記録をもう一度とりたい」という欲求を無理やり満足させるために――。私に、これ以上迷惑をかけまいとしての行動だったのではないだろうか。あくまで想像でしかないが。
兄を軽蔑する自分。嘲笑する自分。兄を突き飛ばす自分。愚かな私の姿が次々に思い出された。内定を1つも取れなかったのも納得できる気がした。
努力の形。なぜ、そんなものにこだわっていたのだろうと疑問に思う。兄には目指すべき明確なゴールがあった。どうして、素直に応援してやれなかったのだろう。
オブジェのように、豆の入った皿と箸が重ねられている。私はそれを手にとって、箸で豆をつまんだ。上手く掴みきれず、移動する過程ですぐ落ちてしまう。何度も繰り返す。
涙が腕を伝って豆が濡れ、少ししぼんだ。
記録的アニキ 梶田向省 @kfp52
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