第5話 虫食いの先
商店街の東端にある老舗文具店「山田文房具」は、朝八時になってもシャッターが半分だった。錆びたレールがきしみながら上がると、紙の匂いと一緒に時間の淀みが底上げされてくる。
「山田さん、今日は開けが遅いじゃないか」
声をかけると、奥の帳場から山田繁(80)がゆっくりと顔を上げた。手には見慣れない青色の申告書。パラパラと音を立てて、真ん中から破いた。
「デジタル化だと? わしの時代は、税務署の若者が帳簿を持って来てくれたんじゃ」
破られた紙片が、扇風機の風に舞う。昭和の頃から動いているという扇風機は、首を振るたびにギシギシと鳴き、虫食いの跡がある羽根が光を透かす。
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昼過ぎ、山田の自宅を訪ねた。古い長屋を改造した家は、冷房もないが、土壁が熱を吸って妙に涼しい。
「これじゃ、本田さん」
山田は押入から取出したのは、表紙に「天保元年」と墨書された帳簿だった。紙はもろく、所々円い穴が空いている。まさに虫食いだ。
「昔はな、税務署の職員が毎月来て、ここに赤で補筆してくれた。『山田さん、虫が食った分は推定で結構です』ってな」
ページをめくると、明治の墨字の横に、昭和の朱書き。時代を結ぶ赤線は、まるで血管のように見えた。
「今は?」
「オンライン会議だ。画面の向こうの若者は、虫食いを『欠損データ』という。推定もクレームもない」
山田の指が、穴を撫でる。触れれば触れるほど、紙は欠けた。
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自治会事務所。冷房は我慢の30度。鈴木副会長は、エビ扇で風を送りながら資料を叩いた。
「高齢者相談会? 予算がない。若手職員の負担増だ」
「山田さんは80だ。あと五年も十年も保つか保たんか──」
「だったら、もっとスピードを上げろってことだ」
鈴木は、スマホで市のHPを開く。QRコードが踊る。
「時代遅れを引きずってる暇はない。われわれだって65だ」
私は窓の外を見た。蝉が一斉に鳴きやんだ。誰かが死んだのか、それとも生き返ったのか、わからない静けさだ。
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夕方、再び文具店の軒先。山田は自前の小机を出して、手書きのカードを並べていた。
〈大文字で書くと税務署も読みやすい〉
〈訂正は二重線 修正テープ禁止〉
「サポートカードですか?」
「ああ。QRコードが読めん者のために、と思いましてな」
だが、カードの隅には「※平成三十五年使用分」と書かれている。既に時効だ。
「結局、紙もデジタルも、わしには重すぎる」
山田は笑う。歯が二つ欠けている。虫食いのように。
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夜、自宅の縁側。風鈴だけが頼りだ。節子が麦茶を注いでくれる。
「山田さんの帳簿、見せてもらった?」
「ああ。虫食いがな、穴が開いても継がれる時代があった」
「今は?」
「穴は穴のまま。データを埋めるのは、本人だけだ」
節子は、ゆっくりと扇いでくれる。
「義郎さん、10年後はどう?」
「10年後?」
「あなたも74でしょう。山田さんと5歳差。次はあなたの番よ」
麦茶の氷が、かちりと音を立てて割れた。氷の内部に、小さな気泡が見える。私の老いだ。
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翌朝、私は文具店に立ち寄った。山田は、まだカードを書いている。
「山田さん、一緒にやりませんか」
「やるって?」
「高齢者同士の申告サポート班。紙でも鉛筆でも、虫食いを埋め合おう」
山田は、しばらく黙っていた。そして、初めて今日、本当に笑った。
「本田さん、わしは80だぞ。五年後は85、十年後は……」
「その先も、帳簿は続く」
私は、ポケットから10円玉を出した。汗で冷えている。
「制度の虫食いは、いつだって人間の老いから始まる。でも、穴を埋めるのも老いの仕事だ」
山田は、10円玉を受け取り、虫食いの帳簿の上に置いた。
「じゃあ、もう一冊、始めようか。令和の虫食い帳簿を」
扇風機が、またギシギシと鳴った。今度は少し、リズムが速い気がした。
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