第3話 味噌の焦げ目

 朝八時、山田さんの家に着くと、縁側から節子の声が聞こえた。


「そうそう、そこをタップして……ほら、QRコードが映ったでしょう」


 私は足を止めた。畳の上では、山田さんと節子が肩を寄せ合い、スマートフォンを覗き込んでいる。山田さんの指は、まるで繊細な菓子を捏ねるときのように震えていた。


「おお、これがデジタルか……孫に頼まなくても済むんじゃな」


 私は、思わず咳払いをした。


「お邪魔してるよ」


「あら、義郎さん。ちょうど良かった。山田さん、もうすぐ一人でできるようになるわ」


 節子は得意げに笑う。四十年もの間、商店街の隣人たちの悩みを、いつもこうして笑顔で溶かしてきた。


「節子、すまんのう……朝っぱらから」


「なにを言ってるの。商店街は、みんなで助け合うのが商売の味方でしょう」


 私は、ふと山田さんの顔を見た。昨日までの暗い影が、少しずつ薄れている。


「本田さん、ありがたいことに、節子さんが……でも、鈴木副会長は、まだ反対してるらしいぞ」


 山田さんの言葉に、私の胸がざわついた。


---


 午後一時、自治会事務所。鈴木は、いつものように冷房の効きすぎた部屋で資料を広げていた。


「本田さん、市の補助金は、税務署の協力がなければ下りない。自主勉強会なんて、火に油を注ぐだけだ」


「でも鈴木さん、高齢者が申告漏れで滞納したら、商店街全体の信用が崩れる」


「信用?」


 鈴木は、鼻で笑った。


「市に逆らえば、協力そのものがなくなる。そしたら、商店街の信用なんて紙くずだ」


 私は、窓の外を見た。蝉時雨が、容赦なく降り注いでいる。エアコンの風が、首筋に冷たく当たる。


「山田さんは、孫に頼むのを忍びないって言ってた。お前のスマホだって、孫が教えたんだろ?」


 私の言葉に、鈴木の眉がぴくりと動いた。


「……それは、それはだな」


 その時、鈴木のスマホが震えた。着信音は、孫の写真とともに「LINEビデオ通話」と表示されている。


「すまん、ちょっと」


 鈴木は、事務所の隅に歩いていく。私は、ふと聞こえてきた声に耳を澄ました。


「おじいちゃん、今日のウナギ、美味しかった?……うん、QRコードでクーポン出したんだ」


 私は、窓の外に目をやった。商店街の向こうに、山田さんの店が見える。ガラス戸に貼られた「手作り最中」の文字が、夏の陽射しに滲んでいる。


---


 夕方、商店街の薬局で偶然、田中健吾と出会った。


「やあ、会長。デジタル化で、経理ソフトの導入費が負担でしてね」


 田中は、苦笑いしながらも、意外な言葉を続けた。


「でも、高齢者支援のワークショップなら、ぜひ参加したいです。母がスマホ操作で泣いたんです」


「母さんが?」


「ええ。QRコードを読み取れない自分が、情けないって。私が教えても、『息子にまで迷惑かけて』って……」


 田中の声が、少し震えた。五十二歳になっても、母の涙は胸に刺さるのだろう。


「商店街で、自主的に勉強会を開こうとしてるんです。市の補助はありませんが」


「構いません。母の代わりに、私が他の人を助けたい」


 私は、田中の手を握った。汗ばんだ掌が、制度の冷たさを暖めてくれる。


---


 夜、自宅の台所。節子が味噌汁をすすりながら、ぽつりと言った。


「鈴木さん、昔、父さんの介護で申告を遅らせたことがあるのよ」


「え?」


「父さんが寝たきりになって、医療費の申告を忘れて、追徴課税されたんですって。だから、市に逆らうのが怖いのよ」


 私は、味噌汁の湯気に顔を当てた。焦げ目のついた鍋底が、私の心を映している。


「節子、ありがとう」


「なにを言ってるの。味噌汁、冷めちゃうわよ」


 私は、味噌汁を一口すすった。しょっぱい、でも温かい。


---


 翌朝、私は自治会事務所に向かった。鈴木は、いつものように資料を広げていた。


「鈴木、一つ提案がある」


「なんだ、また勉強会か?」


「違う。市に頼らない。商店街だけで、自主的にやる」


 鈴木は、驚いた顔をした。


「補助金は?」


「なしだ。でも、商店街の隣人同士で、助け合う。山田さんも、田中も、節子も参加する」


 私は、鈴木のスマホを見た。昨日と同じように、孫からのLINEが届いている。


「鈴木よ、お前のスマホの震えが、わしの答えだ」


 鈴木は、一瞬黙った。そして、ゆっくりと頷いた。


「……わかった。でも、責任は取れない」


「構わない。責任なんて、最初から私が取るつもりだ」


---


 私は、事務所を出た。蝉時雨の中、商店街を歩く。山田さんの店の前で、ふと足を止めた。


「笹の葉だな」


 軒先に生えた笹が、風に揺れている。市役所の壁は高くても、この笹の葉は、いつだって隣の家まで届く。


 私は、胸の内で呟いた。


「制度の壁は、人の温もりで溶かせる。孫のLINEも、妻の味噌汁も、隣の笹の葉も、全部、商店街の味方だ」


 明日から始まる勉強会のチラシ原稿に、私は筆を入れた。


「QRコードが読めなくても、あなたは一人じゃありません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る